『祝福とのろい』
モーセを通して与えられた律法を守るために、契約文書に印を押した者たちの名前が列挙して出てくる。ネヘミア・エルサレム総督のもとに誓いあった仲間、祭司たち、レビ人、門衛、歌い手、宮のしもべ、異邦人の妻と別れて、律法に従う誓いをたてた家族たちであった。
実に聖書の大きなテーマは契約なのです。旧約聖書や新約聖書と私たちは言いますが、この旧約の約は、翻訳の訳ではなくて、契約の約なのです。すこし10章から離れて、契約の事を考えてみましょう。日本人は契約に慣れていませんので、あまり細かく考えたりしませんが、仕事をするにも雇用契約があり、保険をかけるにも、車を買うにも、ローンの契約が必要なことはご存知であるように、聖書も契約の世界なのです。そして、契約には条件付きの契約と無条件契約があります。例えばエデンの園でアダムにはアダム契約が与えられました。産めよ。増えよ。地を満たせとの祝福と同時に、園の中央にある善悪の木からは食べてはいけない、食べると死ぬという条件付き契約でしたが、アダムとエバは、この条件を破ってしまいました。ですからアダム契約は破棄されたのです。それに対して、アブラハム契約は無条件契約です。アブラハムとその子孫イスラエルに土地を与え、すべての民族の祝福の源となるという永遠の無条件契約となります。これはイスラエル民族が、主に背く罪を犯しても、主の目に叶わない偶像を崇めたりしても、それに対する罰は下されるものの、アブラハム契約そのものは、神からの一方的というか無条件契約なので、いまでも継続しているのです。
さらにモーセとの契約、エジプトで奴隷となった民が救い出され、律法によってきよめられて、聖なる民となる、聖別の契約ですが、この祝福と同時に呪いの契約でもあります。なぜならば律法を守れば祝福され、守らなければ祝福を失い、呪いと災いを受けるという、祝福か呪いかの条件付き契約と言って良いかもしれません。
しかし、契約(Contract)というイメージは、紙に書かれてサインをする重々しさを想像させますが、聖書の契約(Covenant)とは、実際にはむしろ父が子に愛を注ぐように、夫婦が神の前で誓い合うように、愛で結ばれる契約なのです。
さて10章に戻ります、29節抜粋「主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のような、のろいの誓いに加わった。」ネヘミアもこのエルサレムの民も律法を守ろうと必死に努力しています。ささげ物規定、安息日規定、例祭を守り、神の宮をなおざりにはしない。捕囚を経験した民の悔い改めであり、この律法を守らなければ、呪いと災いをまた受けることになってしまうという悔い改めからの行為でありました。
ここまで読んで、子供の頃の囃し歌「うそついたら、針10本飲む〜よ」を思い起こしました。なんとか律法を守ろうとする、当然な気持ちであったろうと思いますが、これがやがて律法主義となって、パリサイ派、律法学者とつながってしまうのですね。私たち、現代の信者たちも、教会での礼拝、献金、奉仕にこだわるあまりに、父なる神からの愛を忘れてしまってはいないでしょうか。
祈り
父なる我が神よ、放蕩息子である自分を赦し、愛をいつまでも注いでくださっている事に感謝します。聖書にある契約は、父の愛の表現であることに感謝致します。アーメン
文: 森 宗孝
Comments