『罪と咎の告白』
イスラエルの子らは断食し、自分達と先祖の過ち(咎)や神から離れていた(罪)を告白して主を礼拝するようになりました。その告白内容が9章には記されています。先祖の咎とは、神が、人類を救い出すために、まずは人の中から、たった一人アブラハムを選び、そこから聖なる民族、大いなる子孫であるイスラエル民族をもって人類を救おうとされている。私たちが考えもしない方法、しかも気の遠くなる帰還を経て、神の民を創造される歴史から、その民がいかにして、エジプトで奴隷となり、その民を解放為れた事、聖なる民を守りながら、荒野で訓練するために、主なる神が愛する民と共に過ごすために、天幕を造り、その至聖所に在って、昼は雲の柱、夜は火の柱となって砂漠にいる民を守られ、民の行くべき道を示された事、民を賄うために、朝にはマナを与え、岩から水を出し民を養ったにもかかわらず、自分たちの、先祖たちが傲慢になってしまい、主の命令に従わなかった事実。
40年間の荒野の生活を守った後に、約束のカナンの地を与えてくださったにもかかわらず、先祖たちが主にさからって、律法をうしろに投げ捨て、預言者たちを殺してしまう罪を犯したために、敵の手に渡されて苦しんだ事、その苦難の嘆きを聞いてくださり救って下さったにもかかわらず、また先祖たちが悪事に染まってしまった事。
預言者を通じて、イスラエルの民を戒められたけれども、民が耳を傾けなかったので、地のもろもろの民の手に先祖たちを渡された事、しかし、主のあわれみにより、先祖たちを滅ぼすことなく、見捨てなかった事。私たちの罪のために、大きな苦しみの中にいることを告白している9章です。
歴史は繰り返される、果たして現代のイスラエルは、どうでしょうか? 神の民として、人類救済の計画を実行すべき主の道を歩んでいるのでしょうか。隣国との闘争を、自分達の武力にかけて解決しようとする姿は、神の民の姿にはほど遠いのかもしれません。しかし、同時に自分が、彼らの立場にいて、周りは石油で資金豊かなアラブ民族に囲まれて、自分の家族が誘拐されてしまったら..と考えると、果たして主なる神に頼る代わりに、自分の力で防衛しようと思わないだろうか。それにしても、何万人もの殺害をもっても、復讐は復讐しか招かないことを私たちは知っています。ただ、傍観者として簡単にイスラエルを非難できる立場にいない事も事実です。しかしながら、これらの現状は、やがて聖書にある終わりの日に近づいていることの現れであることは、間違いないようです。
祈り
主よ、どうかあなたの民、イスラエルがこの9章にあるように、悔い改めを経験して、主イエスを神の子として受け入れる日が来ますように。アーメン
文: 森 宗孝
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