「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」―10節(抜粋)―
私たちの力となるのは、やはり主を喜ぶことです。主イエス・キリストによって罪が赦されたということを喜びとしたら私たちの力となるのです。感謝なことであります。
ネヘミヤ記8章は、民全体が水の門の広場に集まったときに学者エズラによってモーセの律法の書が朗読されたときに起こった民の行動が記されている。
エズラは民全体よりも高いところでモーセの律法の書を開くと、民はみな立ち上がりそれに耳を傾けた。エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。
民は律法を聞くことができ、又、レビ人たちの解き明かしによって理解できたのです。そして、自分たちの罪を泣いて悔い改めたのである。その泣き方が半端でなかったので、ネヘミヤたちが、「泣くな」というほどでした。
そして、10節(抜粋)「今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主をよろこぶことは、あなたがたのちからだからだ。」の御言葉で、彼らは赦された喜びを経験し、主の憐みを信じたのである。そして、命じられたとおりにごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲み、何も用意できなかった人にも食べ物を贈ったのである。罪が赦された確信を知った民は、主の憐みに感動して泣いた、その後に頂く食べ物は確実なものだったと思います。感極まって、食べ物が喉をとおらなかったのではと思いを巡らせられました。
二日目に祭司がエズラのもとに集まり、さらに律法を調べて、イスラエルの子らは第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならなかった、民は、オリーブの葉、なつめ椰子の葉や枝木で仮庵を作ってそこに8日間そこに住まなければならなかったのです。これは、エジプト脱出後の苦しい生活を思い出すための習慣であった。城壁が完成したからできたのです。民のおおいなる喜びがつたわってくるようです。
天の父なる神さま。私達は、主イエス・キリストの十字架によって二度と過去のつらかったことを思いださなくてもいい特権が与えられていることを心から感謝します。それらのことは、時にはすましい自分の罪を思い出すことがあります。その時はどうぞその誘惑から守ってください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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