初期の教会において、問題が生じた。毎日の配給でギリシャ語を使うユダヤ人のやもめたちがなおざりにされているというのだ。どんな集団の中でも人と人が交わると何かしらの行き違いが起こる。
一方だけの話を聞いて、後でもう一方の話を聞くと全く違った内容を知らされたりするし、自分がその渦中にはいって、相手にまったく意図しない方向に受け取られてて驚愕することもある。
一口に配膳係というが、結構大変なご奉仕だ。下手したら問題が解決しないどころか、さらに大きくなったりすることもあるのに、使徒たちは弟子たちに働く御霊の力を信じて任せることにした。すべての弟子を集め、その中で、御霊と知恵に満ちた、評判のいい人たちを7人選出させ、その任務にあてらせたのだ。
そこで選出された人の一人、ステパノは、配膳の奉仕だけでなく、大きな不思議としるしを行うようにもなった。このご奉仕に選ばれたのだから、もともと御霊と知恵に満ちた人であったと思うが、自力では到底解決できないご奉仕に関わる問題の一つ一つにに真摯に取り組む中で、さらに御霊に満たされていったに違いない。だからこそ、神様はステパノを通して大いにそのご存在を表して下さった。ステパノ自身もますます神様への信頼を深めていって、みことばを語らずにはいられない状態だったのだろうと思う。
リベルテンといわれる会堂に属する人々はそんなステパノと論じ合い、どうにも対抗することができなかった。それはステパノが論じ合っていたのではなく、聖霊が対抗していたからだ。
そのことでステパノは彼らからすっかり反感を買ってしまい、イエス様と同じようにねたみ、恨みを買って、うその証言によって最高法院にひかれていってしまった。イエス様のことがあったから、この時ステパノも死が頭をよぎったかもしれないが、彼の顔はみ使いの顔のようであったという。聖霊様に守られ、この地のいのちを思うよりも、神様からの導きのまま従う喜びだけに満たされていたのだろう。
この後ステパノは結局石打にされてしまう。人の目から見たら、志半ばで悪に負けてしまったかのようだ。彼の他者への愛情なんて踏みにじられているように見える。しかし、このステパノの殉教に立ち会っていたパウロももしかしたら、ステパノのなんのくもりもない信仰が、心に残っていたかもしれない。また、この後に続く使徒の殉教の際にも、彼らに励ましを与えたのではないかと思うのだ。神様のご計画は人には計り知れない。私の人生も神様の御手の中にあり、私のいい選択も間違った選択も一つ一つが神様にあって益とされていく、神様の栄光に繋がるという真実に平安をいただいていきたいと思わされた。
天のお父様、今日のみことばをありがとうございます。主と共に歩ませていただけることを感謝いたします。どうぞ私の心を清め、御霊で満たしてください。傷をいやし、慰めてください。朝毎に新しい力を与えてください。御心を求め、行えますように。必要な恵みと知恵を与えて下さいますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン
Comentários