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2024年9月10日 列王記第二20章

『バビロン捕囚の布石』

 

 ユダヤ王ヒゼキヤは死にかかっていたにもかかわらず、主の恵みで寿命を15年伸ばして下さった。この事が起こったのは、恐らくアッシリア軍が数々のユダの都市を攻め落とし、いよいよエルサレムに迫ってくる紀元前701年、もしくは直前の出来事であったと推測します。 ヒゼキア王が亡くなったのが紀元前686年なので、彼の寿命を主が15年伸ばしたとありますので、ほぼ間違いなく、エルサレムにアッシリア軍が迫って来た時の出来事でしょう。

6節「わたしは、あなたの寿命にもう15年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。


 そのように、時代背景を考えると瀕死の床にあったヒゼキア王が、アッシリア軍のエルサレム攻撃から神殿を守れるようにと寿命を伸ばしたのは、主の配慮だった事がハッキリとします。


 人の命と時間をコントロールされる神。 寿命を伸ばす事は、神のみわざとして理解できますが、日時計の影を十度後に戻されたとあるので、果たしてこれが何時間に当たるのか、数時間なのか半日近いのか、分かりませんが、いわば地球の回転を止められて、数時間前の状態に戻されたわけですから、大変な事だと思うのです。創造主たる神ですから、それはできると言ってしまえば、確かにそうですが、大変な事をヒゼキア王は主に求めたのですね。 しるしを見せて欲しい、これは私達、信者の中にも潜む願望ではないでしょうか。


 信仰、Faithには強弱があると思うのです。私たちの多くはしるしを見れば信じますという信仰ではないでしょうか、十字架のイエスに向かって、神の子であるならば自分自身を十字架から救ってみろと叫ぶのと同じ弱い信仰です。それに比べてカペナウムに居た、主イエスの癒しを頼った百人隊長、自分のしもべが病気で死にかけていた(ルカ7章)主イエスのおことばだけを下さいと願いました。主イエスへの信頼があまりにも大きいので、主イエスは、イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありませんと評価された強く、深い信仰でした。 そのような目で見ると宗教改革まで手がけたヒゼキア王自身の信仰は、どうだったのだろうと思ってしまいました。しかしエルサレムを守る必要があったので、そのリーダーとしてのヒゼキア王を癒して、主のみわざをユダヤの民に確認させる必要があったのだろうと思うのです。


祈り

 主よ、私の弱い信仰を強めて下さい。しるしを求めたいという気持ちがありますが、主のみことばが聖書を通じて下さる事を信じます。どうかこれからの日々の生活の中で、光が示され、その中を歩むことができますように、弱い自分を助けて下さい。 アーメン  

文: 森 宗孝


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