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2024年8月19日 列王記第一20章

『聖絶』


 イスラエルの歴史は常に敵との戦いに明け暮れている。聖なる民として選ばれた事は、同時にこの世においては、常にその信仰を試される事になるのだろうか。今のイスラエルも、周りには敵対するアラブ連合諸国、しかも石油によって豊かな国に囲まれている、それゆえに生き残るための努力、情報能力や戦闘能力が優れているのかもしれない。しかし、聖なる民に求められていることは、実は主に寄り添って、主の戒めをこの世に示すこと、地の全ての部族を祝福する事にあると聖書は示している。


 20章で示されているのは、13節と28節「そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る」どのようにして主を知るのか、アラム王ベン・ハダドが送り込んだ大軍に対して、考えられないような少数のイスラエル軍によって打ち破る事で、主によってそうなった事を知る。しかしながら、預言を受けて、実際に、そのようなアラム軍に打ち破ってもイスラエル王アハブは、自分の裁量で事を進めてしまうのです。


 アハブ王の弁護をするつもりはありませんが、なんと難しい事を主は求めるのでしょうか。私達の抱える現実の問題は、なんとか自分で手を打たないと、とても解決できるようにはいくら考えても方法はありません。しかし自分の知恵に頼っても、真の解決とならない事も知っています。そのような試練の時こそ「わたしこそ主であることを知る」機会なのかもしれません。


 このアハブも、大国のアラム王ベン・ハダドの命を救う事によって北からの脅威を解いて、自国の安全を確保しようと思い立ったのだろうと思います、確かに敵に塩を送るという出来事も、聖書は記しているわけですから。しかし、この時の主の命令は「聖絶」せよ、との厳しいみことばだったのです。


 逆に、イスラエル民を聖絶しようとする事件は、何度も起こりました。近年ではホロコーストやハマスの目標などがありますが、エステル記にはユダヤ人の敵であるハマンは、ユダヤ人を根絶やしにする事を法令にして実行しようとした記録があります。聖絶という目的は、根を取り去って将来の危険から身を守るための手段です。


 私たちは、簡単に自分の価値判断で「聖絶」を見てしまいますが、見る目が異なる、永遠なる神は聖なる民としたイスラエル民族の存続を守るために厳しい命令を出される事もあると信じます。


祈り

私達が知っている主、恵みに満ちた愛なる神であるお方が、なぜ聖絶という厳しい命令を出すのかと思ってしまう事がありますが、愛なる神は、同時に義なる神でもあります。罪を裁かれる神であることも忘れないように導き下さい。アーメン

文: 森 宗孝


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