『人口調査』
せっかくのサムエル記最後の章ですが、理解に苦しむ章でもあります。ダビデが人口調査をするのですが、それが主の怒りであると記されている1節ですでに、分からずに悩んでしまいます。なぜイスラエルとユダの人口を数える事が、主の怒りにふれるのか。考えながらこの章を読んでみます。
人口調査といえば、例えば民数記では第1章で荒野での2年目に主がモーセにイスラエルの民を一族ごとに人口を調査するようにとレビ族を除いた人口が六〇万三千五百五十人であったとされ、そのような意味で、この書自体を民数記と名付けられているわけですから、人口調査自体が悪いはずはないのです。
さて、サムエル記と内容が重複している歴代誌に何と書いてあるか。歴代誌第一 21章1節「さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。」それに対して3節「ヨアブは言った。「主が、御民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王よ。彼らはみな、わが主のもの、そのしもべではないでしょうか。なぜわが主は、このようなことをお求めになるのですか。なぜイスラエルに罪禍をもたらされるのですか。」この歴代誌ではサタンがそそのかしたとあり、ヨアブもダビデに反対意見を述べているので、人口調査の目的そのものが主の目に悪であり、サタンにそそのかしたという事なのだろうと思うのです。
人口調査の目的が、書かれていないので想像するしかありませんが、例えば税の取り立ての為であったとか、戦争に備えるため、自分の王としての力を誇示するためとか考えられますが、主の為では無かったことは間違いないようです。しかも、ヨアブが調べてきた登録人数がサムエル記ではイスラエル兵士は八十万とあるのに、歴代誌では百十万と数字も全く違っているのはどうしてでしょうか?
しかし、このダビデによる人口調査の咎のために、三つの罰を主が用意され、ダビデ自身がその中から疫病を選んだために、七万人の民が死んだとあり、これは歴代誌でも同じ数字が示されています。ダビデのこの一見何でもないような罪によって七万人が死んだ、これって大変悲惨な結果を招いたわけで、神に選ばれることは、同時に大変な責任と試練に会うことが定められています。
こうしてこの章の締めくるり、それはダビデの罪の贖いのために、エブス人アラウナの土地に祭壇を気づきなさいとの指示が出ましたが、この土地がアブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山、エルサレム神殿がやがて建てられる神聖な場所となります。罪の贖いのための祭壇と捧げ物、やがて来られる神の子羊となられる主イエスの事を暗示しているのでしょう。
祈り
主よ、私たちの罪は贖いの捧げ物となられた主イエスの十字架で支払われました事を、感謝いたします。どうか私たちも主の従順さを見習って、神に忠実な僕となることができますように導いてください。
アーメン
文:森 宗孝
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