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2024年7月2日 サムエル記第二17章

『主がアブサロムにわざわいを』


 日本の戦国時代にも血肉の裏切りや策略によっての戦いが繰り広げられていた、この章では、なぜか織田信長を討ち取った家臣、明智光秀を思い起こした。しかし日本の歴史と決定的に異なるのは、イスラエルの歴史には、神がどのように介入されたかが常に背後にある事ではないだろうか。


 15章31節に、ダビデが主に願っている事が記されている「ダビデは言った。『主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』とあり、実際にこの17章では、アヒトフェルが「私は今夜すぐに、ダビデの後を追い始めます」との助言が取り上げられそうになった所で、主の介入があった事を私達は読み取る事が出来ます。


 もしもこの時にアヒトフェルの提案の通り、ダビデをすぐに追いかけていたら、ダビデの命は無かった事でしょう。17章14節抜粋「主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。」イスラエルの歴史を読む私達は、主が常に背後におられることを読み取ることができる。


 ダビデを助けようとしていたのは一人ではありませんでした。アヒトフェルの助言を打ち消した、アルキ人フシャイと言う人も、アブサロムに隠れて、ダビデを助けようとしているし、あのヨナタンもダビデに状況を伝えようと命懸けで伝令となり、またさらにそのヨナタンらを匿う人もいた。さらに戦闘前のダビデと彼の兵士たちに、食料を持って届けに来た者たちもいた事が記されているのは、ダビデには主が背後におられて助けられておられた事を示している。


 三日殿下の明智光秀に対して、豊臣秀吉が急遽京都に戻ってきて彼を打ち破る事になったのは、秀吉の背後に民意を掴む力があったのだろう、しかしそれ以上に、イスラエルのダビデの背後には主が立っておられた事が人間の歴史である、日本史と神のみことばである聖書の違いであろうと思わされた章でした。


 祈り

主よ、私達には信者となってから、これまで以上の戦いがあります。以前のような家族のことや、健康のこと、職場での患難に加えて、クリスチャンとしての特別な戦いを強いられています。それは敵を愛せとの戒めを守ろうと努力しても、敵からはさらに嫌われたりされる戦い、自分の全てを尽くして神を愛そうとしても、自我の思いが先になってしまう戦い、しかしそのような中にも、主が私たちの後ろに立っていて下さる事で、戦いが戦いで終わるのではなく、帰って神の試練として、私たちの心を鍛える訓練であることに感謝できますように。アーメン  

文:森 宗孝


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