『わたしの教えは、わたしを遣わされた方のものです』
主イエスの兄弟たちもイエスを信じていなかったと5節にありますが、そればかりでなく群衆もイエスを殺そうとしていた1節。つまりこの世に語りかけた主のみことばを受け入れる人もいたのですが、この世の価値観とかけ離れている主の教えに対して、大半は疑い、一部には主を抹殺しようとしていた、そのような緊迫した状況の中で、ユダヤの3大祭りの一つである、秋祭りの仮庵の祭りがエルサレムで始まりました。この祭りは、エジプトの奴隷から解放されて、荒野での天幕生活を思い起こしながら主に感謝を捧げ、秋の収穫と喜びを分かち合う祭りです。
仮庵の祭りもたけなわの頃に、主イエスは突然のように神殿に現れて、みことばを語り始められます。モーセの律法である安息日の本来の解釈、正しい裁きのことなどを心を込めて話すのですが、祭司長やパリサイ人はイエスを捕えようとやっきになります。33節「そこで、イエスは言われた。『もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。』すでにこの時点で主イエスは、父なる神のもとへ戻られる事を知らされていたのですね。しかしユダヤの民は、その意味が理解できていませんでした。
この時期のユダヤ人の律法の理解は、宗教指導者たちが作った「口伝律法」に頼っていたのです。それは例えば、安息日を覚えて、これを聖なるものとせよという律法を守るためには、労働をしてはいけないと解釈するのですが、それでは労働とは、どのような行為なのかを書き記したものが「口伝律法」なのです。そこには歩いて良い距離は何歩かであるとか、水汲みは労働に当たるのかとか細かく規定を作って安息日を守ろうとするのですが、かえって規則に縛られて、本来の安息日の目的である、主を覚え、主と交わり、感謝する事よりも規則を守る事に目が向いてしまっていたのです。そのような者たちに対して
23節抜粋「わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てているのですか。」と主は本来の律法の意味を取り違えていると教えておられます。
そうして仮庵の終わりの日、この日にはユダヤの民が荒野で渇きを覚えて苦しんでいた中を、天なる父は、モーセに岩を打って水をほとばしり出させて民の渇きを清水で満たされた、この事を祝って水を汲んできて神殿に運び上げながら詩篇を歌う行事がありました。ここで主イエスが大声で言われたのは、あなたたちは池から水を汲んで祝っているが、38節「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と宣言され、わたしを信じなさいと促されたのです。
祈り
主イエスを心から信じます。私自身の心の奥底から聖霊なる川が流れている約束に感謝致します。自分自身では、なかなか聖霊の存在を感知し、確信するまでには至っておりませんが、主を信じ、自分では理解できなくとも、すでに聖霊を頂いているものと確信致します。ありがとうございます。アーメン
文: 森 宗孝
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