「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から救い出してくださった。」(4:9)
サウルが戦死し、ダビデの名声と力は誰もが認めるところとなった。そうなれば、サウル亡きあと、いかに新しい王であるダビデに取り入るかを考えるのは、当然のことでしょう。
サウルの息子のイシュ・ボシェテの二人の部下は、主君の首をダビデのところに持って行けば、ダビデに重用されるだろうと考えたのでしょう。しかし、この二人の計画も虚しく、ダビデの怒りに触れて殺されてしまったのです。
人生の計画の中に、神がいるか、いないか。ダビデの人生には、常に「主は…」という主語があります。計画の中に、主なる神の存在があるのです。主は、それを喜ばれるか、主の御心にそっているか、主の道から外れていないか、常に主を意識しているのです。
イシュ・ボシェテの二人の部下は、良い計画だと思ったでしょう。当時の常識からすれば、確かに良い計画だったのです。しかし、人の目に良い計画、完璧な計画であったとしても、主の目にはどうなのか? そこに「主は…」という主語はあるのか。そこを見誤ると策士策に溺れるがごとくに道を誤ってしまいます。
私たちの人生のすべての計画の中に「主は…」という主語を持って歩みたいと心から願います。
天の父なる神さま
私たちの人生の全ての事において、「主は…」という意識を持たせてください。そして主の御心に歩むことが出来ますように、聖霊が私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
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