『いつでも祈り、失望してはいけないこと』
イエス様の教えが続く18章では失望しないでいつも祈ることを示されている。
パリサイ人と取税人の二人の祈りかたの例えをとって語られている。パリサイ人の祈りは自分を高くした祈りで、取税人を見下げた祈りかたである。しかし、取税人の祈りは自分自身を低くした祈りである。自分が罪人であることの告白、あわれみの祈りである。当然のことだけど、義と認められたのは自分を低くして祈った取税人である。
失望しないで祈り続けることほどむずかしいものはない。私は、その経験で祈りが聞かれなかったことがあった。今、思えば私の祈りは失望しながら祈り続けていたことであったのです。少しの望みは持っていたかもしれないけれど、その時は完全に失望という誘惑に祈りをあけわたしてしまっていたのです。38節(抜粋)の一人の目の見えない人のように、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」と祈ることができなかったのです。主のあわれみに従順に、まるで幼子のように従っていくことができなかったのです。その時は全く示されることがなかったけど、聖書の御言葉に触れさせられていくたびに、主が示してくださる、失望しない祈りへと導いてくださっていることは、恵みであり感謝なことである。それは、へりくだり、謙遜な心をもって、悔い改めの祈りをすることができ、前にすすむことができる機会を与えてくださったのである。
すべての祈りがきかれるとは限らないですが、すべては、神の時であるのです。私たちの祈りが神の御心なら必ずきかれると信じて祈っていくことではないでしょうか。神は、私たちの祈る心のなかをごらんになっておられると思います。
信仰の大先輩であられた、当間紀代子姉さまは104歳で召されました。彼女は104歳まで祈り聖句や讃美歌を口ずさんでおられました。訪問した時は、いつも教会員の兄弟姉妹達のことを祈っておられていて、送られてきた週報を読むのを楽しみにしておられたと言われていました。彼女は、第一テサロニケ人への手紙5:16~18の聖句をいつも口ずさんでおられていました。
「いつも喜んでいなさい。」16節
「絶えず祈りなさい。」17節
「すべてのことにおいて感謝しなさい。」18節(抜粋)
大先輩の一人の祈りに支えられて今の私たちがあるのだと思います。いくつになっても希望をもって祈れる者でありたいと思わされます。
愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。いつも、どんな時にも希望を捨てずに祈っていける日々に進むことができますように導いてください。そのためにも、常にへりくだり、幼子のように、あなたに従っていくことができる信仰の道へ歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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