『罪人に対する神の愛』
罪人たちを受け入れるイエスに文句を言うパリサイ人たちや律法学者たちに対し、イエスはたとえ話を話されました。それらは、いなくなった羊のたとえ、失くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえでした。これらのたとえに共通していることは、大切なものを失った悲しみと、それを見つけた時の喜びです。イエスはこれらのたとえを通して、神がいかに罪人を愛しておられるかを示されました。
百匹の羊を飼っていた羊飼いは、九十九匹を野に残してまで、いなくなった一匹を探しに出かけました。そして見つかると、友人や近所の人たちとその喜びを分かち合いました。またドラクマ銀貨十枚をもっていた女が、その一枚を失くした時も、それが見つかるまで家中を探し回り、そして見つかると友人や近所の人たちとその喜びを分かち合いました。
このたとえは、一人の罪人が悔い改める時にどれほどの喜びが天にあるかを教えています。失われたたましいを決して捨て置かない神の愛を感じます。自分自身がこの迷い出た一匹の羊、または一枚のドラクマ銀貨であったと認識するとき、計り知れない神の愛を体験することになります。
パリサイ人や律法学者たちは信仰熱心な人たちでしたが、律法の精神である、神の愛、を学ぶことはありませんでした。そのため、主はさらに放蕩息子のたとえを通して、神の愛について教えました。放蕩を尽くした弟息子は罪人を表し、父の家で仕えた兄息子はパリサイ人や律法学者を表していました。どちらも同じ父の息子でした。
勝手極まりない行動をした弟息子と、まじめに父の下で仕えた兄息子。どちらが正しいのかと問われたなら、兄息子であることは一目瞭然です。しかし主は、その人の行動ではなく、心を見るお方です。弟息子がしたことは確かに罪深いことですが、彼は我に返りました(17)。そして本来の自分の姿に気づくと、悔い改めて、父のもとに立ち返りました。弟息子を迎えて喜ぶ父の姿は、父なる神の姿でした。
一方、兄息子は父に仕え、真面目に暮らしていました。そんなある日、好き勝手に暮らしていた弟息子が帰宅しました。しかもそんな息子に、父は肥えた子牛を屠って彼の帰宅を喜びました。嫉妬に燃えた兄息子は、真面目に仕えて来た自分には子ヤギ一匹くれなかったのに、と訴えます。彼の心は怒りに満ちていました。
この兄息子の気持ちに共感を覚える人は皆、同じ経験をした人ではないかと思います。実の親に異なる扱いをされることほど辛いものはありません。特に、どちらか一方をより愛するような言動は、子どもの心に深い傷を植え付けることになると思います。
しかしそれはこのたとえの主要テーマではありません。私は、この放蕩息子のたとえは、読む者を深い悔い改めへと導く内容になっているなと思いました。自分勝手に放蕩を重ねた弟息子が悔い改める姿は、自らの悔い改めの経験と重なりました。そして、怒りをあらわにした兄息子の姿は、自分の力ではどうすることも出来ない罪を示しました。兄息子と同じような怒りを未だ抱えている自分を発見し、悔い改めに導かれました。
主は今日も、失われた羊を見つけようと働いておられます。終末が近いと感じる今日この頃、福音を伝えることの大切さをより実感しています。先日ある姉妹が、自分の母親を救おうと福音を伝えているが、どうしても受け入れてもらえないと泣いておられました。しかも口汚くののしられるようです。私は彼女の話を聞きながら、この方は弱いけれど、信仰によって強くされていることを感じました。私もまた弱いけれど、主に在って強い、そのことを心に刻んで、家族伝導を始めたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。あなたの愛に感謝いたします。赦されてなお、罪を犯してしまう者です。どうか、気づきを与え、悔い改めに導いてくださいますように。主の愛を知らない家族に、あなたの福音を伝えることができますように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
参照:ハーベストタイム「ルカの福音書」、牧師の書斎「ルカの福音書」
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