『お返し』
14章は神への招きと、神に従う覚悟が述べられている。私が14章で特に心にふれられたところは、12節から14節の「お返し」について述べられているところである。
「お返し」という作法は昔も今も変わらなく重要視されています。特に日本ではそうである。高価なものを頂いたからそれ相応なものをお返ししなければいけないとか、又は、以前とてもお世話になった人に対していつかは「お返し」しなければならないということ等々が世の常の習わしである。私自身「お返し」ということに大失敗したことがある。その失敗を通して、他者への「お返し」という見方から、主をあがめることができるような「お返し」に目が開かされたのである。大きな恵みで、まさに目から鱗がぼろりと落ちた気持ちで心が熱くなる思いがしたのを忘れません。主に感謝でした。
余談になりましたが、12節から14節で、イエスさまが私たちに知ってほしいことに目がとめられました。
イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。
「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。」-12節-
「食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。」-13節-
「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」-14節-
そこの箇所を読んでいて、ホームレスへの炊き出しの光景が蘇ってくるようだった。お返しなしの無償の愛の働きです。彼らはお返しなどできません。でも、イエスさまは述べられています。彼らからお返しはなくても、主の復活のときはお返しを受けるというのです。これが無償の愛の報酬、つまり大きなお返しを受けることになるのではないでしょうか。
愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を心から感謝します。招かれたら末席に座り、自分を常に低くし、自分の持ち物を主にお返しし、心の欲をすべて主にあけわたして、自分の十字架を負って主に従っていけますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
Komentáre