十章でやっとイスラエル12部族を束ねる初の王、サウルの登場!どうやって王様として選ばれたのか。前章で、サウルは父キシュの言いつけで、いなくなった雌ろばを探しに行き、しもべに言われるままに「予見者」と呼ばれていたサムエルに会いに行く。雌ろばがいるだろう方向を示してくれると期待していたが、そこで自分がイスラエルの君主となることを告げられる。
一見偶然と思われるがこういった出会いは全て神様の計画の中にある。人と人が出会うのもそうだし、仕事で会う人々もそうだし、ドンキホーテで長い間会わなかった人に会うのもそうだ。牧師先生が以前言われたように、偶然というのはなく、全てが必然である。
同じ道を毎日散歩していても、昨日は咲いていなかった、野花が咲いていたりすると嬉しい。神様からの贈り物、道ゆく人をなごませてくれる。偶然その日咲いたのではなく、私が落ち込んでいるその日に野花を見せてくれた、私がそれに気づくと神様はご存知であった。ありがたいことです。そう、神様は全てご存知である。もちろん悪い部分が多くある私もご存知である。その点は怖い。
十章で予め、主から見聞きしていた予見者サムエルから油注がれ、サウルはこれから起こることも告げられる。6節「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言(神から預かった言葉を語る)して、新しい人に変えられます。」7節、「これらのしるしがあなたに起こったら、自分できることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。」
王となるものは、まずは部族ごとの選出、なんとくじ引きであった。最小部族のベニヤミンが選ばれ、その中からサウルが選ばれる。くじ引きというのに少し驚いたがそれでいいのだ、だって神様が全て采配しているから。ところがサウルは、22節で荷物の間に隠れてしまった。結局、民が連れ出し、「主がお選びになった王」となる。
サウルは半信半疑であっただろう。「なぜ、最小部族出身の俺が?」とか「自分は雌ろばを探しにいっただけなのに。自分のようにとるに足らぬものがなぜ。」と思ったかもしれない。よこしまな他の民は、27節「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言った。サウルはこのよこしまな者たちの言動を気にしただろうか?私だったら大いに気にしたであろう。でも神様はサウルに何ができるのかを知っている。
神の子どもとされた私たちも、同じように神に選ばれた人である。神様はお一人お一人の全てをご存知でどんな性格で何ができるのかも全てご存知である。この章で、恐れずに一歩進んでみようかという勇気が湧いてきた、何せ神様は私とともにいつもいて下さるのだから。感謝です。
祈り: 愛する天の父なる神様、
今日の御言葉もありがとうございます。あなたにより、選ばれた私たち。すでに聖霊様が内住している。だから自分にできることをしたいです。どうかあなたの御心と私のできること、そして欲を言えば、私のしたいことが重なり合い、一丸となれますように。私の心が曲がっている時、どうか修正の道が与えられますように。あなたに呼ばれた時、アダムやサウルのように隠れずに「はい、ここにおります」と言えるものに変えてください。私にはまだそう言えません。そして、私は欲張りです。あなたがいつもともにいるということをもっと感じられるように気づきを与えて下さい。あなたが既に与えてくださっている恵みにもっと気づくことができますように日々、導いて下さい。
主イエスの御名により祈ります。アーメン
文:マッカーター政子
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