「キルアテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に運んだ。そして、主の箱を守るために彼の息子エアザルを聖別した。」(1)
「主の箱」をめぐる物語が続きます。主の箱は「契約の箱」とも言われます。この箱は、神とイスラエルの民の間に締結された契約を証明するものです。また同時に、神の臨在を現わすものでした。
この主の箱は、時に災いをもたらし、時に祝福をもたらします。えっ?神の臨在は祝福じゃないの?と思いますが、それは時と状況によります。
もし私たちが、神に従っているならば、主の箱は大いなる祝福をもたらします。この章においてペリシテ人の軍隊を神が雷鳴を轟かせて撃退してくださったようにです。
しかし、もし神に従っていないのなら、主の箱は、神の裁きをもたらすことになります。ペリシテ人たちは、主の箱を奪い取りましたが、災いが降ったことで、まさに「触らぬ神に祟りなし」という心境になったのでしょう。災いをもたらす主の箱をイスラエルに送り返すということをしたのです。
私たちが隠れた悪事を行っているとき、自分の罪深い姿に光が当てられるとき、思わず神の存在をうっとうしく、重たく、遠ざけたくなる心境になることもあるでしょう。主の箱(臨在)を送り返すようなことをしてしまうかもしれません。
そんな時、神は私たちの人生に介入して取り扱われることがあります。その取り扱いは、その時には災いと思えることもあるでしょう。
しかし、神は愛であり、あくまでも私たちを幸せにすることを願っていてくださいます。もし私たちが神に悔い改めて神に立ち返るなら、赦しと癒しを得ることができます。それは、大きな祝福となります。
神の臨在のあるところ、私たちは神に対して畏れと喜びを持ちます。毎週の礼拝は、主の箱の間で喜び踊り賛美したダビデのように、神を畏れつつ喜びたい、そのように思わされます。
天の父なる神さま
主の臨在は、いつも私たちと共にあることを感謝します。あなたの臨在を畏れつつ喜ぶ者でありますように。
主の箱を送り返すことがありませんように。あなたの臨在を喜び楽しむ私たちでありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
Comments