この章は、ハンナの主に対する高らかな喜びにあふれる賛美と祈りから始まります。1章で、エルカナの二人の妻の一人で不妊であったハンナは、サムエルという男の子を授かり、ハンナは主を大いに褒めたたえます。
この箇所は、11節の「 エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとで主に仕えていた」とあるように、聖所において祭司エリの下で仕えるサムエルの成長とエリの家の罪とが対照的に描かれています。
「エリの息子はよこしまな者で、主を知らなかった」(12節)という節は、エリの二人の息子たちがサムエルの反対像のように浮かび上がらせています。エリ自身は敬虔な祭司でしたが、子弟の思い計ることは、神の意思を正しく行うことではなく、専ら自分たちの利益を追求することだけに向けられていたようです。
この聖所における堕落した陰鬱な情景の中とは対照的に、サムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていました(18節)。幼くして聖別されて祭司の僕として仕えることになったサムエルは、日常の生活の中で母と口を交わすことのできない別の生活をしていましたが、彼の家族は、変わりなく毎年、年毎のいけにえを携え、巡礼のためシロの聖所にやってきます。母のハンナはどんどん成長する息子サムエルのために小さな上着を作り(19節)、それを届けるのを楽しみにしていたことでしょう。少年サムエルは毎年母の作る上着を着てその愛を離れていても感じ、同時に自分を捧げた母の誇りを心に強く感じることもできたかもしれません。この年に一度の親子の再開は、双方に喜びを与え希望を与える時となりました。
子供は近くにいて育てるから立派に成長するとも限らないのでしょうか。エリの息子たちは親のそばにいても、よこしまな者で、主を知らない者に育ちましたが、サムエルは母の元を離れても立派に成長しています。1年間かけて紡がれた一枚の上着にこめられる母の愛は、遠く離れていても少年の心に届いたでしょうし、主に捧げ祈りの中で主に仕える子の成長を願う母の心を主は気遣い配慮されます。この夫婦の愛、主への献身を見た祭司エリは、エルカナとその妻(ハンナ)を祝福し、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、主はハンナを顧み5人の子供を与えられます(20、21節)。そして、母の下ではなく、しかし「主にあって」(1節)という母の祈りの通り、「少年サムエルは主のみもとで成長し(21節)、神の恵みの光が献身するこの家族に強く当てられています。
こんな風に成長するサムエルに対し、祭司エリの息子たちの罪はますます大きくなります。年老いたエリの目がますますその息子たちに届かなくなります。こともあろうに会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞きます。(22節)エリは父親として厳しく叱責しますが、息子たちはこの忠告を聴こうとしません。「 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」(25節)というエリの言葉は、子弟の犯す罪が、いかに神への冒涜で、致命的であることを悟っているかのようです。
しかし、彼の息子たちは、それにまったく耳を貸そうとせず、取り返しのつかない結果を引き起こします。この出来事はエリにとって責任のある悲しい事となります。しかし、「彼らを殺すことが主のみこころだったからである。」(25節後半)という言葉は、エリの家の罪もまた、神の全能の計画の中にあったことをしめしています。主を重んじるサムエルとその家族と、主を重んじないエリの息子たちに対する取り扱いを通して「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(30節抜粋)という、主のみむねがずしんと響いてきます。
主への祈り:ハンナの身を切るような主の前における献身、それを何が何でも第一にする信仰、彼女のような強い信仰に驚嘆してしまいます。そして彼女や彼女の家族を大いに祝福された主をあがめます。愛する主の御名によって感謝して祈ります。 アーメン
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