『聖なる疑問』
主イエスの巡回伝導には12弟子、それに悪霊や病気を治してもらった多くの女性たちが一緒でした。弟子たちは、たとえ話や奇跡を体験しながら主による弟子訓練を受け、そして女性たちは、主の働きを内面から支えました。聖書は女性の扱いについての記述が少ないのですが、ルカは男性の働きだけでなく、女性の働きにも光をあてることで、神の愛は性に関係なく等しく注がれていることを教えてくれます。
主は訓練のために12弟子を連れて巡回伝導していますが、その意味について理解していた人はいなかったようです。彼らは主を信じて従ってはいますが、その信仰はまだ幼く、主が語られるたとえ話を霊的に理解することができませんでした。たとえの意味が分からない彼らに主が、分かりやすく、解き明かしてくださる場面は感動的です。
聖書もまた、正しく理解するためには説き明かしが必要です。それがなければ、種まきのたとえは、種は良い地に蒔きましょう、という話になるでしょう。燭台のたとえもまた、明かりは照らすために器の中に隠したり、寝台の下に置かないようにしましょう、という話になると思います。
しかし、イエスの解き明かしによって、そこに重要な教訓が隠されていることを知ります。主は彼らに、これから訪れる教会時代の幕開けについて、そしてそれに伴う福音宣教が、聞く者の心によってその成否が問われるということを、種まきのたとえを用いて教えられました。また、一度明かされた奥義を隠してはならない、みことばの光を隠してはいけないと、燭台のたとえを用いて教えられました。
次に弟子たちはガリラヤ湖で嵐を経験しますが、それは彼らの不信仰を明らかにしました。しかしその体験を通して「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」という疑問を起こさせました。主は彼らの心の疑問をご存じであったはずですが、それに対して叱ったり、気分を悪くしたというような記述はありません。それより、訓練途上にある弟子たちの疑問に答えるようにして、悪霊の追い出しや長血の女の癒やし、そして死者のよみがえりといった奇跡を彼らの前で行われました。
教会のいろいろな集まりの中で「何か質問はありませんか」と問われることがありますが、皆がこぞって質問する、という風景を見たことはありません。聞いた内容を咀嚼するだけが精一杯で質問できない、ということもありますが、日本人だからなのか、疑問を抱く、ということに罪意識を感じてしまいがちです。
しかしその疑問が、みこころにかなった聖なる疑問であるなら、ためらうことなく質問することを、主もまた望んでおられるのではないかと思いました。弟子たちの「いったいこの方はどういう方なのだろうか」という疑問に対して、主はご自分を証ししてくださいました。主を知りたい、みこころを知りたいと思うなら、心にある疑問ををうやむやにしてしまわないで、求めて、探し続けることが大事なのだと思いました。また逆に質問を受ける側に立ったなら、心を込めてその疑問に答える者でありたいと思いました。
祈り:愛する天のお父さま。分からないと嘆く心に寄り添ってくださり、励まし、そして間違っていたなら諭してくださること、本当にありがとうございます。人のことばではなく、これからも、みことばによってそれら疑問を汲み取っていくことができますよう、導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
参照:ハーベストタイム「ルカの福音書」
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