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2024年3月20日 マルコの福音書9章

 愛する我が子が悪霊に憑かれて苦しんでいる、その父親はイエスに悪霊を追い出してくれるように懇願した。

 ただし父親は「しかし、おできになるなら」(22)という言い方をした。出来ると信じるのか、どうなのか、イエスはこの父親の中途半端な信仰に対して「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでも出来るのです。』」(23)と言われた。

 すると父親は、「するとすぐに、その子の父親が叫んで言った。『信じます、不信仰な私をお助けください。」(24)と答えたのだ。


 私たちは、「あなたには、何でもできる。」と信じ切って祈り求める者でありたい。「もし出来るなら」というような、遠慮なのか、謙遜ぶっているのか、はっきりしない祈りには、応えもはっきりしない。

 祈りは、具体的に祈れば、具体的に応えられる。はっきりしない祈りには、はっきりしない応えが返って来る。


 この父親の叫びも、また中途半端だ。信じている、でも不信仰な自分だと言うのだ。信じているのか、信じていないのか、どっちなのか? しかし、これはまさに私たちの姿だと思う。信じている自分と、信じ切れていない自分と、その両方が自分の中にある。信じていないわけではない、しかし信じ切れていない自分もある。それが私たちの姿だ。

 しかし、そのような者の叫びにイエスは応えて、御業を行ってくださるのだ。イエスが求めているのは、正しい正解ではなく、正直な叫びなのだ。信じます、でも信じ切れない、そんな弱さを持っている者の、それが正直な叫びなのだ。

 私たちの祈りも、そんな正直な祈りこそ、イエスが求めている祈りなのではないだろうか。


 天の父なる神さま

 私たちはあなたを信じています。でも信じ切れていないことがあります。信じていても不安になったりすることもあります。

 しかし、あなたは私たちのありのままの正直な祈りを求めていてくださいます。どんな時でも、そのままの心をあなたの御前に注ぎだすことができますように。聖霊が私たちの祈りを導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


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