『心をご覧になる主』
パリサイ人や律法学者たちは、イエスを審問するためにエルサレムからやって来ると、イエスのある弟子が汚れた手で食事をしていることに対して異議を唱えました。それに対しイエスは「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」と反論しました。
当時のユダヤ人たちが守るよう教えられていたのは「先祖の言い伝えによる戒め」(口伝律法)でした。それはモーセの律法の精神をないがしろにした内容になっていました。たとえば、『あなたの父と母を敬え』という教えに対し、自分たちが稼いだ金を親のために使うことを嫌った人たちがいたのか、「これはコルバン(ささげ物)です」と言えば親のために使わなくてもよいようにしていました。このように律法違反を犯さないために作られた口伝律法は、本来の律法の精神を無視し、自分たちの都合の良いように作られ、利用されていたのです。
このようなことは今の時代にもあります。聖書の精神を自分たちの都合のいいように解釈して、新たな律法を作り上げるのです。カルトはその代表ですが、キリスト教会に於いても、愛し合いなさいというイエスの教えに従うため、至れり尽くせりのサービスを提唱したり、自らの感情を殺してまで一致や和を求めようとする教会もあるようです。しかしそれは愛ではなく、愛という商品を押し売りしているだけのように私は感じました。
また、教会独自の律法を作っている教会もたくさん存在しています。ホノルル教会もその一つです。それらは教会運営を考えた上でのルールで、聖書のどこにも書かれていない戒めです。しかしそれらが神による権威のもとで定められたルールであるなら、それに従うべきであるとパウロは教えています(ロマ13:1‐3)。ただし、そのルールに従えなかったということでさばかれるなら、それは問題ではと思います。
主イエスは言われました。
「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」(14‐15)
「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(21‐23)
パリサイ人たちや律法学者たちは手だけでなく、からだや食事に用いる杯、また寝台に至るまで洗っていたと言います。しかし彼らの内にあったのは、口伝律法を守らない者に対するののしりであり、律法を守っていると自負する自分への高慢であり、神への欺きでした。彼らは外側の汚れは洗えても、内側の汚れは洗えていなかったのです。彼らのように、表向きは忠実でも、心が悪い考えに満ちているなら、主はその者を必ず訓練されることを忘れてはいけないと思いました。
イエスはこの後、地中海沿いにあるツロという町や、ヨルダン川東岸にあるデカポリスにまで足を運びます。そこで異邦人の女性の娘から悪霊を追い出したり、口がきけず、耳も聞こえない人を癒やしたりしました。主は、主を信じる者の叫びを聞いたなら、それがどんなに遠かろうと、足を運んでくださるお方です。
主は私たちの心をいつもご覧になっています。嬉しい時も、怒っている時も、悲しい時も、楽しい時も、すべて主はご覧になって、知っていてくださっています。そのことを思う時、人が作ったルールや律法であってもないがしろにせず、従うことを選べばいいのだと思いました。そしてもしそれが神の権威のもとにないなら、それらは必ず主が取り去られるのです。
祈り:愛する天のお父さま。パリサイ人たちや律法学者たちの姿から、聖書の教えではなく、人が作ったルールで人をさばいてしまうことのないよう、お守りください。互いに愛し合い、御霊による一致を保つことが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
参照:John Darby “Mark 7”
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