この章には3つの癒しの記述がある。一つは何千という悪霊につかれた異邦人の地に住む人の癒し。この人は一人墓場に住み、だれも彼を押さえることができず、鎖でつないでも引きちぎり、自分を石で傷つけていた。この人自身の人格なんてどこかにいってしまって、全く悪霊に支配されている状態だった。きっと本人を含め誰もが、この人の人生をあきらめていただろう。でもイエス様は、この一人の人を救うために湖を渡っていらして下さったのだ。
あとの二つは同時進行で進む。死にかけている会堂司の娘の癒しのために、イエス様がその父親と共に向かう道すがら、長血を患う女がひっそりとイエス様の衣に触れる。当時、出血が続いている状態とは汚れている状態で、本来このような雑踏の中に紛れ込んでいることがばれたら大変なことになる。でも、12年もの長い間、どんな医者も彼女を癒すことができなかった。その絶望の状況の中、決死の思いで、イエス様の衣にでも触れることができたら救われると信じて触れたのだ。
するとたちどころに血の源が枯れて、病気が癒されたのを感じたとある。同時にイエス様はご自分から力が流れるのを感じられ、誰が触ったのかと立ち止まられた。そのときの緊迫した空気を思う。女はこの状況に恐れで凍り付いた。
そんなに長い時間ではなかっただろうが、会堂司にしてみたら、とても長く感じただろう。何やってんだ、早く娘のところに来てくれ!とイエス様の腕を引っ張りたい思いだったのではないだろうか。でもイエス様はあきらめない。観念した女が名乗り出てすべてを話すと、イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と仰った。
そうこうしている間に、会堂司の家の者が、娘が死んだことを伝えに来た。会堂司にしてみたら、早くしないから娘が死んでしまったじゃないか!と怒りと絶望を感じたかもしれない。でも、イエス様は仰った。「恐れないで、ただ信じていなさい」。そして、イエス様は娘は癒された。
この「恐れずただ信じる」ということが本当に難しいと感じることがある。自分の経験と判断が邪魔をするのだ。人間の知恵と知識では不可能と思えることも、全知全能の神様にはどんなことをも可能であることを、この3人の癒しの物語を通して示していただいた。どんな状況にあっても、一人ひとりをそのお心にかけて下さる、哀れみ深い神様が共にいて下さる。目に見えるものに絶望したり、恐れるのではなく、そこに働かれる神様を信じていなさいと、今日のみことばを通して語って下さってると感じた。
天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。私の目に絶望と思えるものの中にも、あなたは働かれています。誰一人忘れ去られていることはありません。あなたはすべてをご存じで、すべてを司っておられる神様です。自分の悟りに頼ることなくあなたの真実に目を向け続けることができるように助けて下さい。あなたの下さる最善に、私も思いを一つにしていくことができるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン
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