「それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちと共に食卓に着いていた。」(15)
このレビとは、取税人マタイのことである。マタイはイエスに声を掛けられて立ち上がりイエスに従う者とされた。彼は、よほど嬉しかったのだろう。イエスを自宅の食卓に招いた。そこには、同じ取税人や罪人(遊女)が集まっていた。
マタイは、自分はこれから取税人を辞めてイエスに従って行くので、これまでの罪人同士の関係は切る、ということはなかった。むしろ同じ罪人と呼ばれていた者たちを招いてイエスに紹介したのだ。
イエスは、喜んでマタイの招待を受けたようだ。一緒にいた弟子たちは、戸惑ったと思う。これまで付き合ったことのない人たちと仲間になるのだから。それにしても、なんと微笑ましい光景だろうか。神の国とはこの食卓のような所なのだ。私たちの教会も、このような光景が見られる場でありたい。
性格も違う、身分も違う、考え方も違う、言葉も違う、そんな違う者たち同士がイエスを囲んで喜び集まるなら、そこはまさに神の国だ。そして、それが真の教会だ。
私たちが礼拝において聖餐を持っている意味は、まさにそこにある。このマタイの家での食卓は、現在の聖餐につながっているのだ。
誰も裁く者、裁かれる者がいない。罪人のままで、安心して、イエスのもとに集まる、そんな安心、安全な集まりこそ、私たちが求めている主の教会ではないだろうか。
天の父なる神さま
マタイの自宅での食卓は、なんと麗しく、温かな集まりでしょうか。罪人たちが、そのままで安心して集まって来ることが出来たのです。私たちの教会も、そのような安心、安全な集まりでありますように。
そのように教会が、そして私たち一人ひとりが成長してきますように、どうか導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
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