『真の謙遜』
ヨシュア記最後の章を迎えました。彼はイスラエルの全部族をシェケムに集め、そこで最後のメッセージを語ります。シェケムは父祖アブラハムがカナンに入った時、最初の祭壇を築いた場所です(創12:5‐7)。それは父なる神から、土地の約束をいただいた場所です。イスラエルの民にとって非常に感慨深い場所だっただろうと思います。
そのような場所でヨシュアは、イスラエルの神が彼らや彼らの先祖のために成された偉大なるみわざについて語り、そのことを忘れず顧みるよう、主にのみ仕えるよう命じます。彼は「今あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と命じ、これに対して民は「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」と応答します。これはヨシュアが民と結んだ約束でした。ヨシュアは神のみおしえを書に記すと、大きな石を主の聖所がある樫の木の下に建て、すべての民が、確かに主のことばを聞いたことの証しとしました。
彼は、モーセの後継者として人生を全うした後、百十歳でこの世を去りました。彼の遺骸は、ティムナテ・セラフという町に葬られ、彼らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸はシェケムに、アロンの子祭司エルアザルはエフライムにあるギブアに葬られました。こうしてエジプトを出たイスラエルの民は、まだ征服していない土地を残しながらも、主が与えると言われた約束の地での生活が始まりました。
ヨシュアが葬られたティムナテ・セラフという町は、イスラエル部族への相続地の割り当てが終わった後、一番最後にヨシュアが求めた町でした(ヨシュア19:49‐50)。そこは荒れ地で、誰も求めようとしなかった領土だったと言います。普通なら、一番労した彼こそが、一番良い土地を獲得して当然と考えますが、主のみこころはそうではありませんでした。彼は一番最後に、主の命によってティムナテ・セラフを自ら求め、与えられました。彼にとっての報酬とは、主の栄光のために労できたことへの満足感以外には何もなかったのかもしれません。
その彼の姿から、真の謙遜を学びます。ヨシュアは、不平を言わず、貪欲でもなく、また他人が自分に仕えてくれることや、称賛してくれることなど期待しませんでした。彼は、物質的な豊かさのためでも、他人から認められるためでもなく、ただ主の栄光のためだけに、与えられた使命を全うしました。そして最後は、主が与えてくださった小さな町で暮らし、その生涯を終えました。
謙遜を学ぶとき、物質的な豊かさを求める心がクリスチャンにとって最大の妨げのひとつなのかもしれません。聖霊によって与えられている霊の目が見えなくなる時、私たちは不安になり、神に愛されていることを忘れてしまいます。しかし、私たちが永遠の価値に関心を持てば持つほど、そういった物質への重要性は低くなります。キリストの再臨と共に建てられる千年王国、そしてその先にある永遠の御国に希望を見出す者にとって、地上で受ける報酬は貧しいものでしかないのです。
ヨシュアは一番偉大であったにもかかわらず、一番小さいものを求めました。彼は神にとって用いやすい、神に忠実な人でした。彼自身に何らかの特別な才能があったわけでもありません。彼の活躍はすべて主によるものであることは彼自身が熟知していました。私のように罪深い者でも「神の子」とされたことを励みに、ヨシュアの信仰に近づいて行きたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。ヨシュアを通して真の謙遜について教えてくださり、感謝いたします。すべては主によるものでした。肉の目は私自身を誇ろうとします。どうか、霊的な目が養われて、主の栄光をあがめる者とされますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
参照:e-Sword「King Comment」、Bible Pathway (Mar.19,2012)、中川健一「ヨシュア記」
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