この章には、イエスのエルサレム入城が記されている。いよいよ十字架への道が近づいて来た。
群衆は、棕櫚の葉を道に敷いてイエスを迎えた事から、受難節の前の主日は「棕櫚の主日(Palm Sunday)」と呼ばれている。
群衆は「ホザナ」(日本語では万歳!)と叫んでイエスを迎えた。この歓声に込められた群衆の期待とは、ローマ帝国の属国として支配されているダビデの王国を復興してくれる革命的メシヤとしてのものだ。いよいよ解放と自由の時が来た! イエスこそメシヤだと群衆は期待していたのだ。
しかしイエスは、子供のロバに乗ってやってきた。群衆のイメージでは、軍馬に乗り、鎧兜に身を包み、剣を持っているはずが、イエスは子供のロバに、丸腰で、普段着で来られたのだ。
イエスのもたらす平和とは、暴力で相手を打ち負かして獲得するものではない。愛すること、赦すことによってもたらされる平和なのだ。イエスは、剣を抜いたペテロに「剣をもとに収めなさい。剣を取るものは、みな剣で滅びます。」(マタイ26:52)と言われた。この御言葉が真理であることは歴史が証明している。真の平和とは、愛と赦しによって初めてもたらされるものなのだ。
イエスは、ここで群衆の期待を見事に裏切っている。この後群衆は、自分たちの期待が裏切られたと分かったとき、「ホザナ」という叫びが「イエスを十字架につけろ」という叫びに変わっていった。
これが私たち人間の本性だ。自分の期待通りに願った通りにならないと平気でイエスを捨てていく。
イエスは、この私たちの罪のために十字架にかかってくださったのだ。そして、その罪を赦してくださった。
私たちの「ホザナ」という賛美が、賛美であり続けるためには、この罪を自覚し、この罪のためにイエスが十字架で死なれたこと、「父よ、彼らを赦したまえ」という祈りの「彼ら」とは、自分のことだと自覚するときだ。そのときにこそ、賛美が真に賛美となる。
天の父なる神さま
私たちは、自分の期待通りにならないと、つぶやき、躓き、あなたから離れていこうとします。しかし、あなたは、この罪のため十字架で命を捨ててくださいました。
どうか私たちの賛美が、賛美でありつづけますように。十字架のイエスさまのもとで、あなたの赦しを受け取ることができますように、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 文:関真士
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