『七の七十倍の赦し』
この18章の舞台はガリラヤ湖畔の町であるカペナウム近辺で、主の伝道中のたとえ話です。天の御国はどのような者が重要視されるのか?と弟子達が質問した心は、当然、律法を良く学び、そして清い生き方をする者ですよねぇと思っていたのだと思います。ところが主イエスの答えは異なり、向きを変えて(悔い改めて)子供のように(素直)になる者、子供のように、自分を低くする者が御国に入り、一番偉いのだと答えるのです。 神は砕けた心を喜ばれるとある通りです。神の基準は、柔和な心を重視するのです。
さらに、主を信じる小さい者、小羊をつまずかせる者、間違った道を示す道案内達、恐らくこの時代の宗教指導者達を指し示しながら、一人でも主を信じ始めた者を迷わす者は地獄(ゲヘナ)に落ちると警告されているのです。
ところが同時に、ここで完全に赦すことも主イエスは強調されているのです。たとえ話で、王様に1万タラント(およそ6億円以上)の負債がある家来、負債を免除されたのに、彼に借りがある仲間を赦さなかったのを見て、王様は牢獄に彼を入れた話、多くの負債を免除されたのだから、私達も赦しなさい。我に罪を犯した者を、我らが赦すごとく、我らの罪も赦したまえ
の精神を語られていますが、一見すると主を信じる小さき者を迷わす者は地獄に、という前文と矛盾した赦しの教えに見えてしまいます。
一方では、地獄行きの審判、もう一方ではどこまでも赦しをするとは、一体全体、主イエスよ、何を私たちに示されておられるのですか?
33節「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」と主は今の私たちに問われておられます。私達も、心から主イエスが罪あるままの私の罪を背負ってくださって、あわれんで赦して下さった事で、心の底から湧き出る感謝、喜びに包まれた時にこそ、我に罪を犯した者の罪でさえ、目に入る事もないほど小さい事として赦すことができる。そうして自分が向きを変えて、栄光の光である主イエスに近づけば、近づくほど、自分を囲んでいる暗闇は薄れて行く体験をするのではないでしょうか。
アダムが善悪の木の実を食べた時に、全ての被造物に対して平等に光る、神の善悪から離れて、自分自身にとって何が正しくて、何が害になるかという自己中心の善悪の判断基準に私たちの心は神の判断から自分の判断へと移行してしまいました。例えば現在紛争の中に居る、ロシアにとっての善は、ウクライナの善ではありませんし、ハマスにとっての善は、イスラエルにとっては悪というように、神の善悪から、私の善悪になって、神から離れて暗闇の世界に住むことになってしまったのです。
祈り
暗闇の私達に、光となって栄光を照らされる主イエスに出会った事に感謝いたします。そして、今までの生き方の向きを変えて、悔い改め、素直な心で主に向かうことを感謝しつつ、どうか私達に罪を犯す者達、まだ暗闇に住む者達にも、主イエスの光が当たりますように、私達を遣わし、みことばを届けることができますように。主のあわれみに感謝いたします。
アーメン
文:森 宗孝
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