「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。」(ヨシュア記 7章7節)
この聖句はヨシュア記7章の中で、私自身最も興味深く感じさせられた聖句です。今日はそこから学んでみたいと思います。
6章では神の勝利の約束のもとにヨシュアとイスラエルの民はエリコを攻め、目覚ましい勝利を収めました。しかし7章では彼らがアイを攻めようとしていた時、神はヨシュアとイスラエル人には何も語られませんでした。彼らは神が主導であるという象徴の契約の箱もなく、自分たちの偵察と策略だけに基づいて攻めたようです。そして、その結果は完全な敗北でした。
その敗北の後、ヨシュアは神に対してつぶやき愚痴をこぼしました。それが7節の聖句です。
しかしこれは本当に愚痴なんだろうかと思わされます。ある注解によると、こんな言い方でも、神以外のものに対してつぶやくのは不信仰であるけれども、神を意識してつぶやくのは神への期待であり願いであると教えてくれます。子供のように弱い人間であるわたしたちが、親に対して愚痴を言っても、親は子供の心の本底を理解してくれるように、神はヨシュアが本当に求めていることを、それはもともと神の契約で、カナンの地を獲得することだったのですが、本人以上に理解しておられたのです。
そんな自分勝手なヨシュアとイスラエル人たちでしたが、それでも、愚痴にしか聞こえないようなヨシュアのことばの心底をキャッチされ、「立て。あなたはどうしてそのように、ひれ伏しているのか。」(7:10)といって、なぜ神は彼らを敗北に導いたのかという理由を明かされました。それは彼らの内の一人アカンが「聖絶」の掟を守らなかったからだと。
そして更に、神は「立て。民をきよめよ。」(7:13)と言って、「してはあかん」という聖絶の掟に背いたアカンとその家族は石投げの刑で殺され、また聖絶のものを自分のものとして奪い隠している物品、そして家族のすべての所有物を徹底的に焼き去るよう命じられました。それは、アコル(災いをもたらすの意)の谷と呼ばれるところでなされました。そして「主は燃える怒りをやめられた」(7:26)のです。
私たちが、この7節から学べることは、弱い人間である我々自身、神の前でつぶやきや愚痴をブツブツ言っていても、またついつい神様から離れてしまいそうな時でも、無限の愛の神、無限に寛容な神は私たちが心底望んでいること、また必要としていることをすっかりご存知で、それを与えて下さり、成し遂げてくださるということだと思います。
愛する天のお父様、今日のみ言葉を感謝します。あなたは本当に私たちの人間的弱さをご存知で、私たちの愚痴を通してでも、私たちが本当に求めていることを汲み取っていてくださることを感謝します。これからもブツブツ愚痴をこぼすことも多々あると思いますが、主よどうぞお赦し下さい、そして無限に寛容な主よ、あなたに感謝と讃美をおささげします。アーメン。
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