『約束の地へ』
イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活から逃れ、紅海を渡った時に、エジプトの支配が完全に断ち切られました。イザヤ書63章12節「その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し」とあります。この神の御腕とは主イエスのことですね、主イエスが、この時にモーセの前におられたのです。
このヨシュア記4章でも、今度は荒野で40年間の試練を受けたイスラエルの民、すでにモーセと一緒に紅海を渡った経験のある世代は亡くなってしまう。新しい世代を率いてヨシュアは、約束の地に向かいます。この新しい世代のイスラエルの民にも、自分達の両親たちが紅海を渡って、神の臨在を経験したように、これから激しい戦いが予想される、約束の地に向かう前にヨルダン川をまるで紅海を堰き止められたように、遮ってイスラエルの民が前進して行きます。実際にどこのヨルダン川の場所だったのか、エリコの東 ギルガルの近くとあります。
主イエスがバプテスマのヨハネによって洗礼を受けたのも、地図を見るとちょうどこの近くであったようで、自分達はその場所にはバスで立ち寄ることができました。昔よりも川幅は水量が少なくなったせいで狭くなったのかもしれませんが、決して幅の広い大河ではありませんでした、むしろ石を投げると対岸に届くくらいの幅で、茶色に水が濁っていたのですが、何台もの観光バスが停まって、川で洗礼を受ける人々が絶えませんでした。
ヨシュアが渡った時も、このような川だったのかどうかわかりませんが、契約の箱を先頭にヨルダン川を渡り、川の真ん中で契約の箱を担いだ祭司たちの場所から12個の石をとってヨシュアがギルガルで積み上げたとあります。後になって子供たちにヨルダン川を渡った話をするためだと言います。
これから主の戦いが始まります、主が前面に出てイスラエルの民を導くのです。その印として契約の箱、主の臨在がある聖なる箱が先頭に立ってヨルダン川を渡りました。武装したイスラエルの4万の軍勢とありますが、彼らは荒野の生活を経験したとはいえ、実際の戦闘の経験を受けた兵士とは言えません。約束の地では激しい闘いが待ち構えているのですが、主が共にいてくださると言う確信を持って、聖なるイスラエルの民は前進を始めます。
24節「それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」
私達現代のクリスチャン、確かに主イエスは愛に満ちた神です。間違いはありませんが、同時に神に背く者を裁く神でもある事を忘れておりませんか。主を畏れること、恐怖からではなく、主の御腕の尊厳を畏れ敬うことを忘れてはならないのです。
祈り
主を前に、困難に立ち向かう時に私達は、主の御腕に守られ、助けられて、試練を耐える力を与えられます。この世には、試練、困難が取り去られることはありませんが、それに耐える力、主に寄りかかって休ませてくださる事を経験することによって、目の前にはばかる山のような苦難も、乗り越える事が可能となる事に感謝いたします。アーメン
文:森 宗孝
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