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2024年2月15日 マタイの福音書27章

 マタイの福音書27章では、受難週の金曜日のでき事が記されている。イエスが十字架に架けられる時に数人の人々がどのような態度をとったかが述べられている。それらの人々とは、ユダ、ピラト、群衆、兵士たち、百人隊長、そして、アリマタヤ出身のヨセフ達である。


 なかでも、いつも心に思わされるのはイエスを裏切ったユダである。ユダはイエスさまを売り渡したことを後悔する。ユダは4節で、「私は無実の人の血を売って罪を犯した。」と祭司長たちと長老たちに言った。言う相手が間違っていたのである。この時に、主なる神に悔い改めていたら、無惨な死に方をしなくて、他の道が示されていたのではないかと思わせられるのである。この箇所を読むたびにとても残念に思える。


 ユダの心は完全に悪魔に支配されていたのである。イエスさまは、ユダに洗足の時、最後の晩餐の時などで悔い改めの機会をくださっておられたのに、それを無駄にしたのだ。もはや、この時、悔い改める心を、神さまから恵んでもらえない状態に達していたのかもしれない。心を変えていただく余地がなくなってしまっていたのだろう。


 もう一人、イエスさまを裏切ったのはペテロである。この二人の裏切りの違いは、ペテロは激しく泣いて悔い改めた。だがユダは、神に心を向けることも、イエスさまに心を向けることもなかったのである。ただ後悔で終わってしまったのである。ユダが失ったものは、キリストという何にも代えられない尊い宝、そして自分のいのちである。



 愛する天の父よ。御名を心からほめたたえます。今日のみことばを感謝します。私たちの心の中にも悪魔がはいったらユダのようになります。そうならないためにもつねに、イエスさまの十字架の愛にすがっていくことができますように導いてください。そして罪を犯した時は、死を選ぶのではなくて、悔い改めて、明るい光のほうへすすむことができますように導いてください。このレントの期間に、自分にとって十字架とは何を意味しているのかということと向き合っていきたいと思います。この十字架の無償の愛の福音を語れるものとして用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



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