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2024年2月12日 マタイの福音書24章

『荒らす忌まわしいもの』 


 主イエスは、遂に神殿を出て行かれました。律法学者やパリサイ人に対する強烈な糾弾の後、主は神殿を後にされました。このことは、イエスの公での教えが終わったことを示す悲劇的な瞬間を描いていると言います。しかし弟子たちはというと、ヘロデ大王が着手した神殿の美しさを指して称賛していました。彼らの様子をご覧になった主は「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」と来たるべき世について預言されました。


 神殿を出た主は、オリーブ山に登り、そこに座られました。するとペテロ、ヤコブ、ヨハネ、そしてアンデレが主の御許に近寄り(マルコ13:3)、世の終わりのしるしについて訊ねました。主は彼らの質問に対して答えられました。主によるオリーブ山での説教の場面です。


 イエスはまず、世の終わりのしるしではないものについて語っておられます。それらは、偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさです。キリストを名乗る人たちは現在すでに出現していますが、彼らがキリストでないことは明らかです。イエスが昇天されて以降、私たちがキリストと出会えるのは空中です(1テサ4:17)。また患難時代前携挙説に立つなら、信者が地上にいる間にキリストが再臨することなどあり得ません。戦争もまた常に地球上のどこかで起こっています。現在のイスラエルとパレスチナの戦いについても、それが第三次世界大戦を促すというような噂も出ています。


 しかし世の終わりが近づく時、更に状態は悪化し、民族同士または国同士が敵対して立ち上がり(世界戦争)、あちこちで飢饉と地震が起きると主は言われました。想像しただけでも恐ろしい世界ですが、これらはすべて産みの苦しみの始まりだと言われます。


 今の時代は恵みの時代とか教会時代とかと呼ばれていますが、同時に終末時代でもあることを忘れてはいけないことに気づかされます。戦争や飢饉や地震が実際に起きている状況を知りながら、何も感じないわけにはいきません。たとえ神を知らない人であっても、世界各地で起きている戦争や自然災害、またLBGTQに関することなど、世の中が一体どこに向かっているのかということに不安を感じている人たちは多くいると思います。


 この時イエスは弟子たちに、預言者ダニエルによって語られたあの荒らす忌まわしいものが聖なる所に立っているのを見たら、エルサレムにいる人たちは山へ逃げなさい、と警告されました。事実、当時ローマ皇帝となったティトスの像が、神殿の聖なる場所に建てられたことが歴史家ヨセフスによって書かれているそうですが、それを見たユダヤ人の信者たちは、ダニエルの預言を思い出し、山に逃げて助かったと言われています。ユダヤ人の多くは、エルサレム崩壊の時に亡くなりましたが、信者たちは皆助かったそうです。そしてこの史実によって今も、ユダヤ人にとってキリスト者は裏切り者だという考えにつながっているそうです。


 イエスがオリーブ山で弟子たちに語られた世の終わりについての説教は、現代に生きる私たちへの説教でもあります。主イエスの十字架のあがないによって救われた者は9節以降に書かれてあるような状況を経験することはありません。なぜならその前に天に上げられるからです。救われているから大丈夫と平安をいただくことは悪い事ではありません。しかしそこに留まるなら、神は悲しまれるのではと思います。


 完成した聖書を持ち、世の中がどこに向かっているのかを知っている者として、福音を伝えることは責務であると思いました。多くの神学者たちが、第一次世界大戦以降、世の終わりに突入したと考えています。つまり、いつ携挙が起こってもおかしくない時代に自分たちは生きているということです。 「その日」がいつ来るのかについて、主は語られません。なぜならそれは父なる神のみが知ることだからです。しかし「その日」に備えるようにとみことばを残されました。主は、ノアの洪水や泥棒、そして家の主人のたとえ話を用いて、世の終わりは思いがけない時に来ることを警告しています。


 今一度、主のみことばを、主イエスによる律法を心にしっかりと刻みたいと思います。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5、マタイ22:37)

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18、マタイ22:39)

 


祈り:愛する天のお父さま。「荒らす忌まわしいもの」の忌まわしいものと訳されたギリシア語には、悪臭のために吐き気を催す、という意味もあることを学びました。偶像礼拝は神にとって悪臭極まりないものでした。罪人であった頃の私もまた、たとえ良い行いをしたとしてもそれは、臭い物に蓋をするだけの行為であったのだろうと思いました。しかし主を信じる信仰によってきよくされ、それら悪臭から解き放たれました。その恵みに感謝いたします。悪臭はびこるこの世の中で、臆せずみことばを伝える者になりたいと思います。聖霊様、どうか導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:ハーベストタイム「マタイの福音書」、e-Sword「KingComment、Pupil」



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