「ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行った。」(2)
この章は、かなり気の滅入る内容だ。前章のように特別な器として神に守られて王になったヨアシュであった。彼は、壊れた神の神殿を建て直した。まさにリバイバルの器である。しかし、祭司エホヤダの死後、人が変わったようにアシェラ像に仕え、国に神の裁きをもたらした。しかも祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺害してしまった。まるで別人のようなヨアシュの姿である。聖書は出来事を美談でまとめようとしない。目を覆いたくなるような人間の罪を明記する。
しかし、このヨアシュの姿は、まさに私たち人間の現実でもある。私たちの内には、天使のような清さと悪魔のような醜悪さがある。人間はどこまでも崇高な者になれるし、悪魔のような悪者にもなれる。これが人間の現実だ。だからこそ、私たちには救い主が必要なのだ。イエスの十字架と復活の恵みによって、罪と悪が清められ、打ち勝つことができる。
私たちにとっての祭司エホヤダは、大祭司主イエス・キリストである。このお方が私にとって生きている主であるとき、私たちは正しい道を歩むことができる。しかし、この方から離れるとき、その存在がなくなる時(死ぬ時)、私たちは悪の道に進んでしまう。
私にとって、主は生きておられるのか、それともただの文字、形式、習慣になってしまっていないだろうか。私の信仰には命があるだろか。名ばかりの信仰ではないだろうか。私たちの大祭司主イエス・キリストは、決しては死ぬことはない、復活の主である。このお方と共に歩み続けて行きたい。
天の父なる神さま
私たちは、まさにヨアシュのようです。あなたから離れるとき、とんでもない悪の道に歩んでしまいます。どうか、聖霊が日々私たちを励まし、導き、主から離れることのないように守ってください。そしてあなたに再び会うその日まで、あなたに従い続けることができますように、守り導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン 文:関真士
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