「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」(2)
この痛みは、次の理解からもたらされています。「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。」(7) つまりイスラエルの人々は、自分たちはアブラハムの子孫だから自動的に神の民であると考えていました。
しかしパウロは、その考えが間違っていることを指摘したのです。人はみな、律法によらず信仰によって救われる(神の民となる)のですから、イスラエルの子孫であっても、信仰によらなければ救われないということを明らかにしたのです。
パウロの悲しみと痛みは、同胞のイスラエルの民が、メシヤであるイエスを信じないことによって滅びに向かっていることへの悲しみと痛みなのです。
そして、この悲しみと痛みは、彼の感情だけではなく、内なる御霊の想い、つまりイエスの想いなのです。彼の心と内なる御霊の想いが一つとなって、この感情表現があるのです。
私たちは、イエスの喜びも感じ、またイエスの悲しみ痛みも感じる者です。このイエスの心と自らの心が一つとなる時、私たちはイエスの証人として生きるようになります。
パウロは、同胞のイスラエル人が救われるためなら、自分が呪われてもいいとまで言うのです。これはまさにイエスの十字架の心です。自らの命を捨ててでも、人々を救いたいという、神の熱情の愛がパウロの中で燃えているのです。
私たちは、自らの内にお住まいくださっている御霊の想いを感じ取る者でありたいと願います。
天の父なる神さま
私の内にお住まいくださっている御霊は、今どのような想いをお持ちでしょうか。あなたの心と私の心が一つでありますように。この心から私の行動が生まれますように。いよいよあなたの御心を知る者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン 文:関真士
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