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2024年12月23日 ローマ人への手紙7章

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『律法の支配』


 なぜ神は、誰一人として人間が守れない律法を与えたのかと聞かれたことがあります。それに対して明確な答えを出すまでの知恵をもっておりませんが、この質問は、なぜ楽園であるエデンの園の中央に、食べてはならない善悪の知識の木といのちの木を生えさせたのか。という質問にも似ていると思いました。 ”神のみぞ知る”と言ってしまえばそれまでですが、もう少し考えてみましょう。


 律法は、ちょうど幼子が自転車に乗る練習をしてひとり立ちできるまでの間に、自転車につける補助車の役目と聞いた話を思い出しました。思えはイスラエルの民は、奴隷の状態から解放されはしたものの、荒野での試練をうける直前にモーセによって、もっとも重要な律法の十戒が与えられたわけです。さらにお互いの家族を守り、財産を守るための、いわば民法 Civil Law、これは重要な掟を守り、集団生活をするのに必要なルールとしてイスラエルの民に与えられのです、それが十戒も含めて、613あったとイスラエルの民は定義しました。


 パウロは、この7章でさらに明確に、心では神の律法に仕え、肉の身体は罪の律法に仕えていることを説明してくれました。さらに律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だ。死んだらこの律法は適用しないことを示し、私たちはキリストを通して罪の律法に死んで、新しく神の律法によってよみがえったと伝えてくれます。自分の理解では、私たち自身は原罪をもって生まれてきているので、律法を守り通すことは自力ではできませんので、完全に罪のない、しかも神の律法を最後まで従順にまっとうした主イエスを信じることによって、その信仰ゆえに律法を守りきれなかった罪も赦されるのだと思います。なんと壮大なパウロの説明でしょう。


 例えば交通ルールの速度制限で65マイルと設定、これが律法としましょう。これに対して、他のドライバーもスピードを守っていないと自分で判断し決めてしまい、結局スピード違反で走りつづける私たちの自分中心となってしまう姿を描いています。もしもドイツのアウトバーンのように制限速度、律法がないとすれば、好きなだけの速度で走り、なんの罪意識も感じないことでしょう。しかし律法である65マイルがあるために、この律法は他のドライバーの安全をも考えて作り出されと事を知りながらも、守らない自分がいる、罪の自分がいると、もしもパウロが今の時代で車の運転していたら、きっとそう説明してくれたかもしれません。隣人を愛せと律法で言われても、自分の基準で、あの人意地悪だし、クリスチャンではないし愛することはできないが、うちの子供に優しくしてくれる、あの隣人であったら愛せると自分の判断で聖なる律法を解釈してしまう自分たちの心のうちをパウロは表しているのでしょう。エデンの園の善悪の木は、神の善悪から、人が自分自身の判断で善悪を決めてしまう実でした、それを食べてしまった結果なのです。


 この7章は、律法に縛られているユダヤの民、主を信じたいが律法が気になって、妨げられている者たちに、主イエスによってその鎖から解放されたことを深い論理によって、説明された箇所です。


祈り

私たちは律法を成就された、たった一人のお方、神の御子イエス・キリストにすがり、信じることによって、主イエスが盾となってくださって、私たちの罪が赦された事を心から感謝します。アーメン

文: 森 宗孝


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