聖書通読の難所を通り抜けたようですが、次の11章には、ダビデの勇士たちの名前が記されています。系図にしても勇士にしても、聖書は個人の名前を記します。名前とはその人の存在を意味します。名前が消されるということは、その存在がなくなることです。神は「名前を呼ぶ神」です。それは、私たち一人ひとりの存在の確かさを現わします。現代において、自分の存在を確立できない、存在の浮遊感を感じている方が大勢います。その属する集団から名前が消されないように必死に頑張っています。教会の原語のエクレシアとは「名前を呼ばれた者たちの集まり」という意味です。さらに私たちの名前は命の書に記されています。今日も、神に名前を覚えられ、呼ばれている自分であることを知りたいと思います。
10章には、サウル王の死が記されています。彼は「主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ」(13)のです。今の私たちはイエスさまの十字架のゆえに、このように裁かれることはありませんが、罪が罪であることには変わりありません。神の罪に対する裁きが軽くなったのではありません。イエスさまがその裁きをその身に受けてくださったのです。私たちは、サウルの死を通して、主を畏れることを学びたいと思います。
そして勇士たちは、さらされたサウルと子供たちの亡骸を敵の地から奪い取り墓に葬ったという事が記されています。主を裏切るという罪を犯したサウルであっても、それを裁くのは神だけであって、人が裁いてはならないのです。神の裁きで死んだサウルであっても、人がそのサウルに石を投げることではないのです。逆に勇士たちは、その罪を犯した者を手厚く葬ったのです。
私たちも、罪を犯した者に対して石を投げてはならず、人としての尊厳を見失ってはならないのです。
天の父なる神さま
サウルの死を通して、私たちは主よあなたを畏れます。しかしイエスさまの十字架のゆえに神の裁きを免れていることを感謝します。あまりのあなたの愛の大きさにひれ伏す思いです。また、私たちが罪を犯した者に石を投げることがありませんように、決して高慢になり、自分も同じ罪人であることを忘れることがないように、ただ主の恵みによって生かされていることを忘れることがないように、どうぞ守り導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
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