この章はレビ人の系図とその奉仕について書かれている。
「ソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、この者たちが会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、それぞれ定めにしたがって奉仕を受け持った。」(32)
レビ人の働きは主に礼拝に関するものであったが、モーセの時代、その礼拝は律法に則り、捧げものを捧げることを中心にしたものだった。厳かでピーンと張りつめた、緊張感のあるものだったのではないかと想像する。ダビデはその幕屋にレビ人から聖歌隊をたてた。楽器を演奏する者4000人(23:5)、歌の訓練を受けた達人288人(25:7)によって昼も夜も賛美が捧げられていたというのだから、ダビデの賛美への思いは相当だったと思う。
それまでの律法に則ったモーセの礼拝スタイルに、自分独自の礼拝方法を取り入れていくとは、とても大胆だと思う。モーセの礼拝方法は神様が示して下さったことを忠実に行うことだったのだから、それに何か付け加えることが神様を冒涜することにならないのだろうかなどと考えても不思議ではない。
この礼拝のスタイルに、ダビデと神様の関係を見ることができる気がする。神様は彼にとって大いなる、恐れおおい神様であると同時に、もっと身近で彼を支え、導いてくださる最も慕わしいお方、最も信頼に足るお方だったに違いないと思う。この方なくして何もできないことを彼自身が深く味わっていたからこそ、まず神様をあがめていたい、賛美していたい、求めていたいという思いが、このスタイルに表現されているのではないかと思う。彼にとって礼拝は、それまでの儀式的で形式ばったものではなく、生きた神様との生きた交わりの時間であり、そこにどうしても賛美を取り入れたかったのだと思う。
彼自身がよく神様と交わり、人格的に神様を知っていたからこそ、びくびくすることなくできた大胆な行いだと思う。神様もこのダビデの心と礼拝をきっと喜ばれたのではないかと思う。
天のお父様 今日のみことばを感謝します。私が神様を礼拝するとき、神様が私の心を喜んで下さいますように。神様と日々生きたお交わりをさせていただくことができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン
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