「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」11節
パウロは、23章11節で主がお語りになられた、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」という御言葉をしっかりと心に据えていたのがわかります。そうでなければ、カエサルの法廷で多くの人々の前で自分の無実を大胆に語ることができないはずです。
それにしても、人の上に立つ者達の不従順さがうかがわれます。無実の罪のイエス様の裁判の時もそうでした。あのピラトも大衆の暴動を恐れて責任逃れの態度をとりました。そして、今、やはり無実の罪のパウロも死罪に当たることは何一つしていないと言う、フェストゥスですが、彼は人の好意を得るために、26、27節で語っている彼の悪知恵が見え見えに思えます。
「ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事柄が何もありません。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王、あなたの前に、彼を引き出しました。こうして取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです。」26節
「囚人を送るのに、訴える理由を示さないのは、道理に合わないと思うのです。」27節
この裁判の場を通して、主なる神は何を示そうとされたのでしょうか。ただパウロの無実だけを公にされたのでしょうか。そこのところを深堀していくと、主なる神のご計画は、この裁判の場を通してもローマの支配者の中に福音を広げようとしておられることを示そうとしているということだと言われています。神は、実に人知では計り知れない、いろんな方法、いろんな人を用いられます。あなたであるかもしれません。私であるかもしれません。その時に、どれだけ福音を伝えることができるだろうかと思わされるところです。そのためにも、聖書をもっと深堀していく必要があります。
天の父なる神様。私たちの周りには多くの非クリスチャンがいます。彼らに、福音を語ろうとする時に勇気が入ります。恐れもあります。どうか私たちの内にあるこれらのこと全てを取り去ってください。私たちが大胆に福音を語れるように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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