『主イエスのくびき』
バプテスマのヨハネは、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ、エリアの霊と力で、主に先立って不従順な民を主のために整える仕事が与えられていました。たくさんの人がかなりの遠方から、このバプテスマのヨハネを訪ねてきて、洗礼を受けていた事が分かります。使徒の働き19章1~3節にパウロがコリントからエペソで何人かのクリスチャンに出会った時の様子が記されています。地図を見るとこれは今のギリシャからトルコの町ですが、ここの人たちは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けていたけれど、主イエスの事は知らなかったと書かれています。 ですからこのバプテスマのヨハネの影響力は、地中海地方に広がるほどの大変影響力ある伝道師であったことが理解できます。
この時代は、洗礼式・バプテスマは異教徒がユダヤ教徒となる時にだけ行われるものだったようで、ユダヤ人にとっての悔い改めの清めは、それぞれの人の心を打ち、神に立ち返ると言う意味を考えさせられた行為だったようです。確かに、バプテスマのヨハネのメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」そうしてまさに天の御国から御子イエスが遣わされて来られる道を開きました。
そのようなバプテズマのヨハネも、人の子です。牢獄に入れられて、主イエスが本当に救い主なのか、自分の思い違いではなかったと気落ちして、迷い出すのです。それで伝言を主イエスに送ります。3節抜粋「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」ここにバプテスマのヨハネも私達と同じ、弱さを持った人であった事も理解できると思います。
なぜ預言者達は、聞く耳を持たない、目を閉した民にわざわざ命がけでみことばを伝えようとするのでしょうか。神の御子である主イエスの声でさえも、悟ることがない民のために語り続けるのか….それはきっと、その時代には判らなくても、実際に預言通りに事が起こる時に、初めて、あの預言者のみことばは本物だったと後世の人が理解して、信じる事ができるためではないのかと思うのです。
28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」有名なみことばです。しかしここで、主は重荷を取り去ってあげようとは言っておられません、休ませてあげようですね。
くびきというのは、畑を耕す農作業にいつも使われていて、この時代はきっと牛にくびきをかけて作業していたわけですが、牛2頭に、木でできたくびきをかけて、引っ張るようにさせて土地を掘りかけす作業を思い起こすように、主イエスが、わたしのくびきは負いやすくとも言われたのは、きっと弱りきったあなたの肩の荷、重荷を、わたし・主イエスの肩にかかったくびきで引っ張ってあげるので、あなたのかついでいるくびきは、軽くなる。あなたを休ませてあげますと言われたのだろうと想像するのです。主に自分の重荷を少しでも持って頂いて、休むという
姿は、私達が苦難の中で、主にすがる姿です。主を信じて、頼る事、信頼することが私たちの信仰ではないでしょうか。
祈り
主よ、柔和である事は決して、弱々しい姿ではないのですね。はがねのような決意を持って人生の苦難に立ち向かいながらも、天の父の御旨にはあくまでも従順であること。そのように十字架まで負ってくださった、そのような主イエスに感謝しつつ、自分の全信頼を、どんな時でも、主におくことができますように アーメン
文:森 宗孝
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