マタイの福音書6章は、5章に続いて「山上の垂訓」で、天の御国の民の生活態度がどうあるべきかを教えている。
当時のユダヤ人たちの宗教生活の習慣が偽善的なものに陥っていたことを指摘して、天の御国の民はどのようにすべきかをしめされた。
人に見せるために人前で善行をしないように、施しは他人への愛、祈りは神への願い、断食は自分への罪への悲しみのゆえに行うものであるので、決して人からほめられるためにするものではありません。
「主の祈り」は単なる祈祷文ではなく、「天の父」への親しい語り掛けである事実に気づくことが重要である、とある解説者は語っている。このことに、自分は、果たして親しい語り掛けで「天の父よ」と語り掛けるように祈っていたのかと気づかされた。かたい祈祷文を祈っている自分であったのだ。目から鱗が落ちるようであった。私たちは、「天の父」に愛されているので、もっと、もっと親しく「天の父よ」と大胆に語り掛けていいのである。天の父よ、感謝します。
そして、御国の民は地上に宝を蓄えるのはやめなさいと述べられている。地上の宝に心を奪われる生活には、いろんな心配がやってきます。盗人の心配、いつかは朽ちてなくなる心配、人と人との争い等々です。そのようなことが決して起こらない天に宝を蓄えるべきだと教えています。
空の鳥や野の花、草木は、何も心配していないのに、天の父は養ってくださっています。天の父は、私たちに何が必要かを知っておられます。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6:33
「ですから、明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」マタイ6:34
愛する天の父なる神さま。今日のみことばを心から感謝します。
あなたにもっと、もっと親しく祈ることができますように導いてください。私たちは、あなたに愛されているという確信をしっかりと持ち、あなたに信頼していくことができますようにお祈りします。天の御国の民の生活に一歩、一歩近づいていくことができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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