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2024年1月23日 マタイの福音書4章

『ガリラヤに光が昇る』


 主イエスは一体何者なのか? 関先生のメッセージにありますように、主イエスも弟子たちに向かって「あなた方はわたしをだれだと思うのか?」と問われましたように、クリスチャンにとって一番大事な事は、私たち、それぞれがイエスをどのように受け止めているかです。日本人の多くは、キリストは、素晴らしい先生であったと思っています。イスラム教徒ですら、キリストは預言者の一人と位置付けているのです。


 まず主イエスは100%人間であったことが大事な点です。この4章にイエスが洗礼を受けて、これから公生涯を始めようとする矢先に悪魔の試みを受けるのです。イスラエルの民が40年間も荒野で試練を受けましたが、それを象徴するかのように、主イエスも40日間の断食をされ空腹を覚えられました。主が私達同様、もしくはもっと強い誘惑を受けておられます。この世の全てをあげようとサタンはイエスが望んでおられる事を的確に捉えて、私を拝むなら、あげようと言っています。主イエスは人間が受ける誘惑を経験しておられます。悪魔も聖書を知っています、しかし主イエスは、みことばを持って切り返して撃退します。


 まことに主イエスは100%人の子ですが、同時に100%神の子であり、救い主でもあられます。民の中のあらゆる病、わずらいを癒された。病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など、全ての人を癒やされた。これは救い主でなければできない神のみわざです。罪の赦しができるのは、私たちをお造りになった神のみわざです。

 このようにして、人の子であり、神の御子、主はガリラヤ地方で、世の光として宣教を開始されたのです。主イエスが語られた福音とは17節「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」私達も、主イエスと同じような経験をしなかったでしょうか。まず人生の患難、試練にあって信仰が試され、もしくは起こされて、悔い改め、天の御国を望む希望が湧き上がるのです。


 主イエスは私たちの試練や誘惑を良くご存知です、ご自分も経験されたのですから。この世での病、苦しみ、悪霊の働き、身体の弱さをご存知です、多くの人を癒やされたのですから。


 実はガリラヤ湖畔の町には、かつてベツサイダやコラジンと言う町がありました。イエスの弟子たち、アンデレとペテロ、ピリポもこのベツサイダ町の出身で、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込んでくる北側にあった町で今は跡形もありません。ベツサイダとはアラム語で「漁師の家」つまり漁師の中でも一番の漁師のいる町と言われていたのです。主イエスは光となって暗闇のガリラヤに来られました、生まれ故郷のナザレ村からおりて来られるとガリラヤ湖です。しかし、これほどの奇跡、病人の癒し、罪の赦しをされるイエスを信じることができなかったと聖書にあり、マタイ11章になると、わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。と呪われるようになり、今は町の面影も残っていないのです。


祈り

 世の光として来られた主イエス、人の弱さを知り、救いの手を伸ばされる主イエスから背を向けてしまう者、まだ主イエスの事さえ知らない者たちに、私たちが福音を伝え続けることができますように、我々に与えられた賜物を使うチャンスが与えられますように。

アーメン  

文:森 宗孝


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