『バプテスマのヨハネ』
バプテスマのヨハネがヨルダン川の荒野に現れた頃のエルサレムは、ギリシャ・ローマの支配下にありました。モーセの律法がまだ有効であった時代にもかかわらず、親ローマである上流階級のユダヤ人が祭司として選ばれていたり、モーセの律法を上回る言い伝えによる厳しい掟を民に守らせようとする一派も存在していました。彼らは、サドカイ人とパリサイ人と呼ばれる人たちで、バプテスマのヨハネの行動を知って、荒野にも来ていました。
バプテスマのヨハネが語った御国の福音のメッセージは、瞬く間に群衆を引き寄せました。マルコによるとユダヤ地方の全域とエルサレムのすべての住民がヨハネのもとにやって来たと書いています。ヨハネは天の御国が近づいたこと、そして世の罪を取り除く神の子羊であるお方が来られる、という驚くべき事実を告げました。主を待ち望み続けていた人たちの喜びの歓声が聞こえて来るようです。
ヨハネはイスラエルの民に「悔い改めなさい。御国が近づいたから」と告げます。そしてそれを聞いた民は、各々自分の罪を告白し、彼からバプテスマを受けました。当時ユダヤ人にとって悔い改めとは異邦人のものという考えがあり、自分たちには必要がないとされていたにも拘らず、彼らは悔い改めのバプテスマを受けました。彼らにとって御国が近づいたというメッセージは、旧約で預言されていた救い主の到来を意味していました。そこに入るためのきよめのバプテスマと理解したのかもしれません。いずれにせよ、後に登場するペテロやルカといった十二弟子たちの大半が、聖霊によるバプテスマの前に、このバプテスマを受けたと考えられているそうです。
ヨハネがイスラエルの民に悔い改めのバプテスマを授けていると、そこに主イエスもガリラヤからやって来て、民と同じように彼からバプテスマを受けることを望まれました。罪のないお方が悔い改めのバプテスマを受けようとすることにヨハネは戸惑います。しかし主イエスは、そうすることが正しいことであり、自分たちにふさわしいことだと言われました。
神であられるお方が人となること自体、すでに究極の辱めであると思われますが、主はさらに民と同じ悔い改めのバプテスマを受けてくださいました。それはヨハネが語る御国の福音、また彼の行いがモーセの律法にかなって正しいことであることを示しました。さらに、主を待ち望み続けた民の思いと一体化するために主は洗礼を受けらえれたとも考えられているそうです。
主イエスがバプテスマを受けて、水から上がると、天が開いて、聖霊が下り、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という父なる神の声が響きました。父なる神はその日、御子に向かってこのことばを言われましたが、これは今も、信じて救いに与った一人ひとりに語られている父なる神のみことばです。不完全で、弱さのゆえに、いとも簡単に、神を裏切ってしまうような者であっても、神は愛し、喜んでくださっています。このことは永遠に変わることのない事実です。
ヨハネの登場によって、旧約聖書で約束されていた救い主到来の預言は成就しました。そして今、恵みの時代に生きる私たちは、新約聖書に記されている約束を信じて救い主の再臨を待ち望んでいます。その日のために、今日も明日も、主に忠実である者でありたいと願います。
祈り:愛する天のお父さま。旧約聖書の預言通り、ヨハネのバプテスマによっていよいよ十字架への道が整いました。そのことを思う時、主のみこころの成就のために、それぞれ異なる役割があることを学びます。ヨハネはイスラエルの民に悔い改めの洗礼を授けていましたが、実はそれは、主イエスの公生涯のスタートを知らせる出来事に繋がっていました。同じように、働きの大小に関わらず、最終的には主のみこころの成就につながる働きであると信じ、心を込めて奉仕に携わっていきたいと思います。主よ、どうぞ導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
参照:ハーベストタイム「マタイの福音書」、e-Sword「KingComment」
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