『石打ちの刑』
映画の題名は忘れたけれど、現代の町、ある中東の村を通りかかっていたジャーナリストが老女に呼び止められて、彼女の家に密かに招かれて、この村で起こった悲惨な出来事を聞きながら、その場面が映画として描かれていた。この村のある親切な奥さんが人助けのために、この老女の炊事洗濯を手伝ったり、少し頭の弱い親戚の男やもめの面倒を見てあげていた、ところが彼女のご主人が浮気をして、その相手と一緒になるために、親切な奥さんと離婚をしようと画策して、彼女が面倒見ていた男やもめと姦通の罪を犯したとして訴えて、石打ちの刑にするというストーリーでした。
彼女は無罪を主張するけれど、村の広場に穴が掘られ、膝から下が埋められて、動かないようにされて、泣き叫ぶ彼女に、石を投げるのは罪を訴えた親族から、やがて多くの石に打たれて彼女の亡骸だけが広場に残った、それをこの老女だけが真実を伝えてゆくという非情な映画でした。
この申命記17章には、主の契約を破った者の石打ちの刑が示されている。それなのに人の持つ罪のゆえに、石打ちの刑まで自分のために利用しようとしてしまう。主イエスの前に姦淫の罪で女が連れてこられた(ヨハネ8章)これもパリサイ人が主イエスをなんとか陥れようとする罠でした。イエスが姦淫の女を許せば、律法違反、もしそのまま石打ちの刑を続ければ、無慈悲なイエスとして、民衆の信頼を失うという人間の目からすると完璧な罠をかけたのです。
私たち人間は、自分の力で主の戒めを守る事ができないのです。私達の先祖である、アダムが神の掟に背いて、善悪の木の実を食べた結果で、何が起こったか。 自分達で善悪を判断する、しかしこれは私にとっての善と悪であり、隣の人の考える善悪とは異なってしまう。自己中心の善悪の判断となってしまったのです。
17章後半7節に、イスラエル民族が王を自分たちの中から選び、その王は自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。とあるのにダビデの息子、ソロモン王は、この掟を守ることができませんでした。自分の判断に頼ったために、全ての人に同等に下される、神の善悪から離れてしまったのでした。そのために、折角の聖なるイスラエルの国は、南北二つに分断されて弱体化してしまいました。
私たちは主の祈りで、み国を来たらしたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。と祈ります、すでにみこころは完全に天ではなされていますが、この地では主イエスによる王国が建てられませんと、人の力では、どうしても出来ない事を歴史は繰り返し私たちに伝えております。どうか主イエスが完全な王としてみこころをこの地にもなさせ賜りますように、主の再来を待ち望みます。
祈り
どうか主イエスが、もう一度この世に戻り、王として君臨されます時には、その僕となり、仕え、働く機会が与えられますように、そのために今の世で様々な訓練を受け、準備ができますように導きください。 アーメン
文:森 宗孝
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