レビ記8章は、アロンとその息子たちが祭司として任命される儀式について記されています。この章は、彼らが、神のために聖別されることをテーマにしており、主を礼拝するために必要ないけにえや、祭司の装束、油注ぎ、などについて詳しく説明されています。アロンとその息子たちが神のものになり、彼らが神の御用にあずかることができるように聖別されます。聖別とは、他のものを捨て、神だけのものになることを意味するのだそうです。
また、この章は、現代に生きる私たちが、イエス様の十字架の血による贖いについて学ぶ最高のチャンスでもあるそうです。
レビ記1~7章までは、ささげなければいけないいけにえについて細々と書かれています。この8章ではそれらをつかさどる祭司のことが主題です。主の命令により、モーセを通して、アロンとその息子たちがどのように聖別され、祭司として任命されるのかが書かれています。
祭司の職務は人々の弱さを携えて、神のみ前に出て、神に語ります。聖所の中に入ることができるのは祭司たちだけでした。だから一般のイスラエルの人々は間接的にしか神に近づくことはできなかったのです。
ここを読んで示されたことは、新約時代の我々クリスチャンは恵まれていて、何と幸せで感謝なことかということです。私たちのイエス様が十字架の上で血を流され、葬られ、よみがえられたからこそ、イエス様を信じる全ての者が神の前に直接近づくことができるのです。それだけでなく、私たちは祭司とされました。ペテロが言ってる通りです、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Iペテロ2:9)そしてイエス様ご自身が私たちの大祭司となり、神の右に座し、私たちのために執り成していてくださいます。だから私たちは直接神様に近づき、神様に直接自分の願いを打ち明けることができるのです。
そして、この祭司の任務は旧約時代においてはアロンとその子孫だけに限られていました。この8章において、モーセは神が命じられたとおりに、アロンとその子らが祭司となるための儀式を授けます。それに参列する全ての人々は、その儀式の目的や順序を細かく理解し、必要なものを何一つ欠かすことなく用意しなければならなかったことでしょう。
新約時代の我々クリスチャンは、祭司になるためのそのような厳しい儀式を経験しなくてもいいのです。「イエス様、私はあなたを信じます。この信仰を持ってこれから私の全てをあなたに委ね、あなたと共に生きていきます。」と告白するだけで、私たちは神の子とされ、そして祭司として頂いたのです。
祭司になるための任職の儀式の大事な事は決められた手順でいけにえがほふられます。その時、まず雄牛の上に手を置いて祈ります。これはこの牛が自分の身代わりになって、自分の罪や弱さがこの牛に転嫁されたことを示すものだそうです。これは私たちを神の前にきよい存在にして下さったイエス様が流された血のことのようです。即ちイエス様は、私たちの罪のためにいけにえの雄牛や雄羊の代わりになってくださったということです。
全焼のいけにえも又、自分という全てを主に明け渡すことを意味するそうです。自分が何といたらない人間であるのかと自覚し、自分は主にすべてをお委ねして生きる他ないと自覚した時、それは自分が生きたそなえものであり、全焼のいけにえになったということだと思います。そしてそれはすべてを主に委ねたということだと思います。
愛する天のお父様、この章を読んで教えられました。罪人であり弱い存在である私たちがきよめられ、神と直接交わることができるようにと、イエス様は神であるのに、雄牛や雄羊のようにいけにえとなって、血を流してくださった、そして葬られ、蘇り、父なる神様のみもとで、私たちのために大祭司となられたことを学びました。私たちも祭司として主のためにこれからもすべてをお委ねして、主のために、また周りの人々のために働けるようお導き下さい。
イエス様感謝です。アーメン。
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