「人が罪に陥って主の信頼を裏切るとき、すなわち、預かり物や担保の物や、かすめた物について同胞を欺いたり、あるいは同胞を脅迫しゆすり取ったり、あるいは落とし物を見つけながらも欺いたりするなどして、人が罪に陥って行う事柄の一つについて、偽りの誓いをするようなとき、」(1節~3節)
ここに列挙されている罪は、同胞を欺き、奪うという罪ですが、それは「主の信頼を裏切る」ことだというのです。
主は、私たちを信頼しておられます。落とし物を拾ったとき、それを隠して自分のものにするか、それとも届けて出て持ち主に戻るようにするか、その時に後者を選ぶのが本来の人間の在り方です。
しかしもし隣人を欺くなら、それは隣人に対してのみならず、神のかちに造られた人間としての自分自身を欺くことになり、さらに造り主である主の信頼を裏切ることになるのです。
隣人を愛さないことは、主を愛さないことと同じなのです。だから罪なのです。ある小学生が先生に「なぜ人を殺したらいけないの?」と質問したそうです。なぜ盗んだらいけないの? なぜ姦淫したらいけないの? なぜそれらが罪なのでしょうか? なぜなら、それは主の信頼を裏切ることだからです。だから、世間が、流行が、周りが何と言っても、主の御前に罪なのです。
しかしこの6章には、もしその罪を自覚した場合の、相手に対する弁償の仕方が具体的に記されています。実害の五分の一を上乗せして償います(5節)。
また、その罪に対する赦しを、どのようにしたら得ることが出来るのかも具体的に記されています(6、7節)
主は、罪を罪として示すのみならず、その罪に対しての償いの仕方、赦しの得た方まで懇切丁寧に教えてくださるのです。
私たちに罪を示す方は、罪を赦し、その罪の影響からも癒し回復してくださる方です。それが十字架の恵みなのです。
天の父なる神さま
私たちが隣人に対して罪を犯すことは、主に罪を犯すことと同じであることを学びました。しかし、あなたはなんとあわれみ深いお方でしょうか。その罪に対する解決の道も示してくださることを感謝いたします。
どうか、主の信頼を裏切ることのない者として歩むことができますように、聖霊が助け導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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