『罪のためのいけにえ』 アイゾン直子
主はモーセに、罪のためのいけにえについて命じます。それは気づかずに犯した罪、つまり過失の罪に対する命令です。これまでの自発的ないけにえとは異なり、ここでは誰がどの動物を、どのように献げなければいけないかが義務付けられています。ここでの民は礼拝者としてではなく、罪人として主に近づきます。そのため、そこで献げられる全焼のいけにえは、民衆の一人による献げものを除いて、「芳ばしい香り」ということばが出て来ません。
罪のためのいけにえは、その身分によって決められ、大祭司の場合は傷のない若い雄牛を、イスラエルの全会衆の場合は若い雄牛を、上に立つ者(族長)の場合は傷のない雄ヤギを、そして民衆の一人の場合は、その収入に応じて傷のない雌ヤギ、もしくは傷のない雌羊が定められました。
それらいけにえは祭司によって屠られると、その血は聖所の垂れ幕に7度振りまくことが大祭司とイスラエルの全会衆の罪に対して命じられました。それは主が臨在される聖所への道を聖別するためでした。それは、主イエスがヨハネの福音書14章6節で語られたことです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。」
また香の祭壇の四隅にある角に血を塗ることも命じられていますが、それは香の道、つまり祈りの道を再び開くためでした(詩編141:2参照)。そしてすべての血は祭壇の土台に流され、、脂肪は焼いて煙にしました。祭壇の上に注ぎ出されたいけにえの血は、私たちが罪人であることに気づかない時に流された主イエス・キリストの血です。脂肪は、血とともに食べてはならないと定められているため(レビ3:17)焼いて煙にします。つまり血と脂肪は主のもの、と言うことです。
ただし、脂肪以外の皮、肉、頭と足、内臓と汚物は宿営の外、つまり天幕の外で焼くことが命じられました。このことは主イエスご自身が、エルサレムにある神殿の外で十字架にかかられたことに繋がります。主ご自身が、私たちの罪のゆえに汚れた者となって、神殿の外で十字架にかかられました。しかしそれは、主がご自身の血によって私たちを聖なる者とするためでした。
主は、意図せず犯した罪に対しても、いけにえを献げ、きよくなることを義務付けました。しかしそれは同時に、神との関係を回復させるという目的をもった定めでした。聖書には「~しなさい」といった命令がたくさんありますが、それは「あなたのためになるから」という神の思いが含まれていると言います。ここでも、この犠牲の動物をこのようにして献げなさいと命じておられますが、それは罪の赦しのため、神との関係の回復のため、つまりイスラエルの民にとってためになるから、そのようにしなさい、と命じているのです。
無意識のうちに犯してしまっている罪に対しても主は悔い改めを求めておられることを学びました。その無意識の罪のために十字架にかかってくださった主イエスのゲッセマネでの祈りを思い出します。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
旧約時代のいけにえの血は、その罪を覆うだけであったと言います。動物の血は罪を完全に拭い去ることができなかったため、継続して犠牲の動物が献げられました。しかし、主イエスの血はすべての罪をきよめました。私たちは、過去に犯した罪、これから犯すかも知れない罪、そして無意識のうちの罪に対してもすでに赦され、神の目にはきよい者として映っています。それは主イエスの滴る血の涙、十字架で流された血のゆえに、無償で与えられている恵みです。感謝をもって主の十字架を見上げる者でありたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。罪のためのいけにえの章から、主イエスの血による贖いの尊さについて、再び学ぶことができました。ありがとうございます。神であられるお方が人となってこの世に来られ、尚且つ、罪の意識を持たない者のために尊いいのちが献げられたこと、感謝いたします。主イエスの御足に従う者として、私の思いではなく、主のみこころが‘なりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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