9章では疫病、腫物、雹の災害が述べられている。
主が災害を起こすごとにファラオは、降参するかのようであるけれどもすぐまた心を頑なにするのである。それの繰り返しが続いている。しかし主は、ファラオを地から消し去ることを今でもできるけれどそれをしないのは、16節(抜粋)で「しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」と主のみこころがここに語られている。
主は他のエジプト人にもあわれみをかけられる。かれらにも救いの道を開いておられました。エジプトの建国以来、非常に激しい雹を降らせる前に、『家畜と、野にいるすべてのものを避難させよ、野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』(19節抜粋)と宣言されるのである。
ファラオの家臣の中で主を恐れた者や家畜はみなすくわれた。しかし、主のことばを心に留めなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死んだのである。主を恐れる者の救いと主を恐れない者への死がはっきりとあらわされています。神のみこころは必ず成就するということである。
30節でモーセが、ファラオとその家臣がまだ、主を恐れていないことを知っているといった後の、31節と32節のみことばが目に留まった。「亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。」
解説者によると、人が今弱さの中にあっても小麦と裸麦が残されていることがわかると、自分の中にまだやっていける力や可能性が少しでもあると思い、この時のファラオのように頑なになってしまうことがあるということです。主がエジプトのすべてを打たなかったのはエジプトに対するあわれみであったのに、それを自分たちはまだやっていけると思う判断材料にしてしまったということである。
愛する天の神さま。今日のみことばを感謝します。私もファラオのように、弱い立場にいる時に小麦と裸麦が残されていることがわかると、自分の中にある可能性を優先にして、主を二の次にしてしまうことがあります。どうぞそのような時は、この弱い者を正しい道へ導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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