32章における「金の子牛事件」の後、イスラエルの民は、これから約束の地に向かって進み始めようとしています。
しかし神は、このような民と一緒に行くならば、また同じような出来事が起こって民を滅ぼしてしまうことになるので、一緒に行かないと言われたのです(3節)。民は、それを聞いて嘆き悲しみました。
ただ神は、モーセに対して「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14節)と語られます。このことばには励まされます。主の臨在が私と共にある、最大の励ましです。
しかしモーセは、それで満足しないのです。なぜなら自分一人が神と共に在っても、他の民がそうでないからです。そこでモーセは、神に民のとりなしを始めます。
モーセは、イエスを指し示す存在です。イエスは、インマヌエル(神、我らと共にいる」というお方です。主の臨在はいつもイエスと共に在りました。しかしイエスは、すべての民が神と共に在ることを願われたのです。
そして、神にとりなしをされました。それが十字架です。十字架によって神と人との和解を実現してくださったのです。
私は、改めて教えられました。自分が主の臨在の中で安らぎ、喜び、満たされて過ごす、そこで自分だけが満足するのではないということです。イエスは、十字架で神の臨在を失いました。今の私たちにとって臨在が失われることはありません。しかし、イエスの心をもって歩むとするなら、臨在の外にいる方々に仕えるという事だと思います。
モーセも、イエスも、自分だけが主の臨在の中にあることを望みませんでした。
「モーセは言った。『どうか、あなたの栄光を私に見せてください。』」(18節) この御言葉の意味は、どうかこの民を救うことによって神の栄光を見せてください、という意味です。
臨在の外にいる方々が救われるとき、そこに神の栄光が現わされるのです。
天の父なる神さま
あなたの臨在は、いつも私たちと共にあることを感謝します。また、この臨在の外にいる方々に私たちの想いを向けさせてくださったことを感謝します。モーセのように、イエスさまのように、臨在の外にいる方々に仕え、十字架の福音を伝えることができますように、私たちを用いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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