『血はいのち』 アイゾン直子
シナイ契約(モーセ契約)が民の同意を以って締結しようとしています。モーセの律法の内容を聞いた彼らは声を一つにして「主の言われたことはすべて行います」と答えます。彼らは自分たちが神と契約を結んだこと、モーセの律法の下で生きることへの決意を表明し、契約の書が読まれた後も同じように「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」と誓います。
十戒に始まる律法はこの時点で100項目以上にわたっています(出20‐23)。それらを聞くだけでも相当の時間を要したと思いますが、イスラエルの民は本当にきちんと内容を理解していたのでしょうか。なぜなら、シナイ契約締結後、彼らはモーセがシナイ山から帰還するのを待てずに金の子牛を作って礼拝します。神以外のものを礼拝してはならないと偶像礼拝を禁じられていたにも関わらず、呆気なく罪を犯す民のその姿は、主イエスが語られた種を蒔く人のたとえ話を思い出させます(ルカ8:11‐14)。
ちなみに日本国憲法は全部で103条あるそうです。たとえばそれらを誰かが1日かけて読み上げてくれたとして、私にはすべて理解できる自信は到底ありません。聞くだけで疲れるだろうし、途中までは聞けても、後はうわの空で、何とかなるくらいの感覚になると思います。イスラエルの民も同じような感覚だったのではと思います。彼らは、モーセの律法にことごとく違反し続けると同時に、それを守ろうとして逆に自分たちを追い詰めていくことになります。これは、律法の意図を正しく理解していなかったために、そうなったのではないかと思います。私たちもまた、みことばを正しく理解していないと、信仰生活が苦しいものになってしまうのかもしれません。
イスラエルの民の本意は定かではありませんが、モーセは彼らの応答を確認すると、契約のための全焼のいけにえを献げ、雄牛の血が流されました。全焼のいけにえは神への全き献身を、雄牛の血はきよめを表していると言います。モーセはいけにえの血を民に振りかけると「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である」と言いました(8)。このことばは、主イエスも言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」(1コリント11:25)
モーセの契約の時も主イエスの契約の時もいけにえの血が流されました。モーセの時は雄牛でしたが、主イエスの時は主ご自身の血が流されました。聖書の神はなぜ罪のきよめのために血を要求されるのでしょうか。それは、血はいのちそのものだからです。アダム以降、人には罪=死(滅び)という定めが与えられましたが、人を愛する神は、血=いのち(再生)という定めも与えてくださいました(創9:5‐6抜粋)。
モーセ時代の動物による犠牲の血は、いくら献げようとも人の罪をきよめることはできませんでした。そのため、律法の下に生きる彼らは犠牲の動物を毎日献げるようになります(出29:38)。しかし、主イエスの血はすべての罪をきよめました。原罪が宿る身でありながら、きよいとされました。ハレルヤ。
モーセの律法は全部で613項目あると言われていますが、その役割は何だったのでしょうか。それは、神のきよさを学び、聖なる国民として生きるための基準を教える役割を果たしていましたが、その中でも最も大切な掟は隣人を愛することにありました(レビ19:18)。しかしモーセの律法を完全に守ることが出来た人物は存在しませんでした。もし出来たなら、その人は神だからです。ただ主イエスはモーセの律法を完全に守った唯一のお方です。
主イエスの血が流されるまで、人々は神のきよさに近づくことも、達することもできませんでした。かろうじて動物のいけにえのゆえに、それも祭司を通して、神を礼拝することが許されていました。しかし、主イエスの十字架以降、イエスは主であるという信仰によって、まだきよくはない私たちがきよいとされ、祭司を通すことなく、御前に大胆に近づくことが許されるようになりました。何という恵みでしょうか。
モーセの律法は、主イエスによって完成しました。主イエスが十字架で流された血は、犠牲の動物の血ではきよめられなかったすべての罪をきよめ、行いによる義ではなく、信仰による義を与えました。主イエスによる新しい契約を結んだ者として、みことばに従う者でありたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。御子イエスの血の献げものに、心から感謝いたします。言葉で「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」と言うことは簡単だけれど、実行することは難しいことが改めて示されました。言葉だけではなく、信仰と行動をもって、あなたに従って生きて行くことが出来ますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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