『主の訓練』 アイゾン直子
エジプトを出た民は約束の地に向かって旅を始めています。その距離は、普通に歩けば11日間で到着できる距離でしたが(申命記1:2)、そこを彼らは40年もさまようことになります。飲み水がないという不便な生活を強いられた民は、モーセに不満をぶつけます。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか」(3抜粋)。
神は私たちの必要をすべて満たしてくださるお方です。なのになぜ、荒野で民に一番必要な飲み水を与えないのでしょうか。それはこの旅そのものが、主の訓練であったからです。彼らは、父祖アブラハムの時代から、神を礼拝する民として選ばれていました。しかし400年に及ぶ奴隷生活は、彼らからそのような資質を奪っていたのかもしれません。モーセによる主の数々の奇跡を見、体験させることは「わたしが主である」ということを知るためでした。しかし彼らは主を試みて、飲み水がないと不満をぶつけたのです。彼らは、モーセの信仰のゆえに飲み水に与りますが、その場所は彼らの不信仰を記録する名となりました。
イスラエルの民の言動から、不満もまた不信仰の表れであることを学びます。主は私たちの必要をすべて満たしてくださいますが、それは自動的ではないことを改めて覚えたいと思いました。不安があるなら、まず主のみもとに行くこと、そして祈り求めること、これが礼拝する民の姿であり、神との正しい関係の姿ではないかと思いました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37抜粋)
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)
次にアマレク人との戦いの話が出てきます。彼らはヤコブの兄エサウから出た民族です(創世記36:11‐12)。彼らは、イスラエルの民がエジプトから持ち出した富を狙って背後から襲い、それらを奪いました。彼らの卑劣な行為は神の怒りに触れ、主は彼らを天の下から完全に消し去ると言われました。ただし、そのことが成就するのはダビデの時代になってからです。モーセはヨシュアを戦いの指揮官に命じ、彼自身は神の杖を携え、戦いに挑みました。民にとって初めての戦いでしたが、彼らは神の助けによって勝利を得ました。
戦いのときにモーセが携えた神の杖は、キリストの十字架を表していると言います。神の杖によってモーセたちが戦いに勝利したように、私たちも十字架を携えて戦いに勝利していくことを学びます。サタンが支配するこの世の毎日は、悪霊との戦いの連続です。キリストの十字架を携えていなければ、容易に神以外のものに屈してしまいます。必要は満たされていると信じていても、目の前に差し出される物質に惑わされる時があります。人は皆壊れた器であると認めていながら、他者をさばいている時があります。思い煩う必要がないと知っていても、見えない未来に不安を抱く時があります。そのような時、神の杖を持ったモーセの手が上がっていた時のイスラエルのように、キリストの十字架から目を離さない限り、私たちもまたサタンに対して優勢でいられるのだと思います。自我を退け、神の方法で戦いに勝利していきたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。あなたはご自分の民を訓練されるお方です。それは私があなたの子であることの証明です。感謝して主の訓練に与りたいと思います。しかし、それでも苦しい時は祈り、みつばさに憩いを求めます。主は私を背負ってでも、守り、導いてくださることを心から感謝したいと思います。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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