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2023年7月31日 出エジプト記3章
『「わたしはある」という御名がともにおられる』 アイゾン直子
ここまで舞台裏にいたモーセが、いよいよ舞台表に戻って来ます。エジプトでの優雅な暮らしから一変して羊飼い、それも舅の羊の世話をしていたモーセが、イスラエルの民をエジプトから導き出す解放者として召されます。
モーセはいつのものように、羊の群れを連れて神の山ホレブ(シナイ山)にやって来ますが、そこで燃え尽きない柴を見つけます。燃え尽きない柴とわざわざ書いているのは当時、枯れた柴同士が摩擦によって燃えることは日常の光景であったからだそうです。しかしその日に見た柴は、燃えているのに燃え尽きなかったのです。モーセが不思議に思って近づく光景が想像できます。
その炎の中に主の使いが現れます。旧約聖書にはこのような自然現象による神の顕現の箇所がたくさん登場しますが、これは「シャカイナグローリー(shekinah glory)」(神の栄光)と呼ばれるものです。出エジプト記では雲の柱や火の柱、幕屋など、またダビデの時代なら神殿の至聖所にそれは座するようになります。しかし紀元前70年のエルサレム崩壊と共に神の栄光は民の間から去って行きます。そして長い沈黙の後、主イエス・キリストとともに地上に戻られ、神を礼拝する者たちの中に再び神の栄光(シャカイナグローリー)が臨在するようになったのです。
神はモーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」と命じます。しかし彼は、神の突然の召しに困惑します。エジプトにいた時ならまだしも、今は年老いて羊飼いとして生活している身分です。そのような者が、イスラエル民族の解放などという大それた働きなど出来るはずもない、「私は、いったい何者なのでしょう」ということばにそれらの思いが凝縮されています。
しかしモーセは、そのような不安さえ何一つ隠すことなく、神に質問を通して委ねていきます。その姿に彼の信仰のすばらしさを見たように思いました。不安や心配事があるとき、それらは何か恥ずかしいことでもあるかのように、つい口をつぐんでしまいたくなりますが、神を信じるなら、すべてを告白するべきであることに気づかされます。
モーセの一番の不安は、民の信頼を得ることにありました。彼は「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか」と質問します。
神に名を聞くとは不思議な質問です。しかし、神の御名はその働きに応じて変わるというへブル的歴史の背景がありました。たとえば「エロヒム」(創造主)「エル・シャダイ」(全能なる神)「ヤハウェ」(契約の神)「アドナイ」(わが主)などです(ハーベストタイム「出エジプト記」、Got Question参照)。そのような背景を考慮するなら、民をエジプトから導き出す神の名は何か、という質問は的を得ていたと考えることができます。
神は答えて「わたしはある」という名を啓示されました。これも不思議な名ですが、ヘブル語に合致する訳がなく、英語訳の「I am that I am」を訳した結果、そうなったようです。しかしこの御名は、神ご自身の本質を示すものとなりました。それは、自立自存の神(誰かに造られることなく、ご自身で存在しておられる)、自足している神(何も必要としない、ご自身の中ですべてが完結しておられる)、すべてを包含している神(宇宙、時間など)、そしていかなる限界もない神ということです(ハーベストタイム「出エジプト記」参照)。私たちが信仰する神は、そういうお方であるということが、この御名によって明らかにされたのです。
モーセは、自身が抱いた不安を神に委ねることによって、神の本質を示す御名が示され、またそのお方がともにいてくださるという約束に与りました。このモーセの姿に、不安や悩みがあるならまず神に打ち明けることの大切さに気付かされます。ついつい、神は全知であるのだからと告白しないで過ごしてしまいますが、そうではないのです。告白するための時間をきちんと作る、それは日々の祈り、またデボーションとなり、神がともにいてくださるという確信へと導かれて行く時となるのだと思います。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生れる前から、『わたしはある』なのです。」(ヨハネ8:58)。「わたしはある」という御名の神が、今日も私とともにいてくださることを感謝したいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。あなたの本質を表す御名を啓示してくださり、ありがとうございます。そのような偉大な神が、私のような者と過ごす時間を期待しておられることを知りました。ありがとうございます。日々の祈りが習慣化しますよう、聖霊様、どうぞお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン