ヤコブの手紙を通して語られている主題は、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(2:17)だと思います。キリスト教の真理は単に知識的、哲学的、瞑想的、抽象的なものではなく、それは知性だけで服従するものではなく、クリスチャンの全生活を通して、その信仰を、人々の前で「行い」として出して行くことです。
その主題に戻づいて、ヤコブはその手紙の全体を通して、当時の多くのキリスト者のあやまちや欠点、不十分さや不完全さ、罪とか過ちを指摘し、正しい道に戻ることをすすめています。この第五章でも金持ちの求めている富のむなしさに捕らわれないように、彼らの労働者に対する罪を犯さないように、主が来られる時まで耐え忍ぶよう、祈ることと讃美することの大切さなどを勧めています。
しかしこの章の最後の聖句には、我々救われたクリスチャンにとって、最も重要な「行い」が示されていると思います。
「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいてだれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(5:19,20)
人間というものは弱いもので、キリストの愛と憐れみの内に救われ、正しい真理の道に戻ったはずなのに、時としてその真理の道からはみ出て、罪を犯してしまいます。そういう人たちを、もとの真理の道に引き戻すことのできたクリスチャンは、その人の信仰をはっきりと「行い」にあらわしているということで、このヤコブの手紙の主題と一致するものです。
しかし、単に横道に逸れてしまったクリスチャンの友だけを、正しい道に連れ戻すだけではないと思います。すべての人間はもともと神の最高傑作品として創られ、正しい道を歩むべきはずでした。しかしアダムとエバ以来罪人となってしましました。だから、すでに救われていたけれども横道に逸れてしまった人たちだけでなく、この世において未だに救われていないすべての人でも、本来の神様の正しい道に引き戻すことができれば、これは最高の「行い」と思われます。これは更に言及すると、人類の救い主であられるイエス・キリストのお働きをヘルプしていると理解できるのではないでしょうか。そしてそれは神様からの大いなる名誉が与えられるに値いするものだと思われます。
私自身この聖句についてもっと深く知りたいと思って、ウイリアム・バークレーという人の注解書を読んでみて、とても励まされました。
バークレーが言っていることの中心は、「人が過ちを犯し、横道にそれたとする。それで仲間のクリスチャンがその人を間違った道から救い出し、正しい道に戻したとしましょう。その兄弟を救った人はその兄弟の魂を救っただけでなく、自分自身の多くの罪をもつぐなったことになるのである」と。
ということは、横道にそれた人を正しい道に連れ戻すためには、自分自身雪のように白く罪のない人間でなくとも、即ち未だ完全に神の正しい道にいなくてもいいということではないでしょうか。私も含めて、多くのクリスチャンは、自分は、横道に逸れてしまった友を、正しい神の道に連れ戻すほどの立派なクリスチャンではないと、しり込みしてしまうのではないでしょうか。このバークレーの解釈は、多くのクリスチャンに安心感を与え、自分でもできるのだと言う励ましの思いを与えてくれるのではないでしょうか。
祈り:愛する天のお父様、あなたの御名を讃えます。私たちがあなたの愛と憐れみによって救われたことを感謝します。そしてこの救いの偉大なギフトを、私たち完全ではありませんけれども、クリスチャンの信仰の表現として、他の多くの人たちに伝えると言う「行い」ができるよう、そういう機会と必要なあなたの知恵と勇気をお与え下さい。アーメン。
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