『神なのです』
ヨセフ物語のクライマックス。兄たちに、奴隷として売り飛ばされた弟であることを告げようとし、こらえきれずに声を上げて泣くヨセフ。
見知らぬエジプトに売られ、牢獄に入れられ、孤独に苛まれ、肉親からの深い傷を抱えて生きてきた万感の思いが涙となってあふれ出したのか。
いや、そうではない。ヨセフの傷は20年近くの歳月をかけて、神さまに完全に癒されていた。だから兄たちを赦すことができた勝利の涙、親愛を込めて和解しようとする聖なる涙だ。
「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」(3節抜粋)
真っ先に、父のことを聞く。父ヤコブが、ヨセフに神さまを教えてくれたからだ。ヨセフが教えられた神は、どん底の不条理から救ってくれた。大成してからも、へりくだりを与えて導びいてくれた。人生の困難と順風の両面で、「父から教えられた神」は彼を守り、ヨセフも神第一に信じて歩んでこれた。
「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(5節)
ヨセフは自分の十字架を負い、イエスさまのように神さまに赦しを乞うてきたのだろう。過去のでき事は変えられないけれど、過去の意味は益に変えてくださる神さまだから。
「いのちを救う神」は、ヨセフ物語の主題でもあるけれど、聖書全体が示す十字架の啓示でもある。
また、「あなたがたより先に私を遣わし」という表現には、エジプトでの年月や飢饉への備えだけでなく、後世の子孫にまで及ぶ、神の民としての共通の使命をも意味しているようだ。
8節でもう一度繰り返すほどに、大切なこと。
「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」
ヨセフの主語、主客は徹頭徹尾、神さまだ。ヨセフの信仰の旅路を思えば、きれいごとばかりでなく、「神さま、なぜですが?」、「どうして自分だけが?」と理解し難い思いをぶつけたこともあったはずだ。でもその中で忍耐を学び、逃げずにいつも神さまに向き合ってきた。
だから、「あなたがたではなく、神なのです。」と言いきれるのだ。
神さま、私はまだ「神なのです」と言い切れることが少ないです。ですがヨセフ物語を思い浮かべれば、たくさんの名場面がよみがえります。黙想することで、信仰の旅路を微調整することもできます。ヨセフ物語のみことばを与えてくださりありがとうございます。
「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」(詩119:105)
感謝してイエスさまのお名前で祈ります。アーメン
2年以上ディボーションを執筆させていただき、今日で担当を終了します。
長い間、ありがとうございました。(夏実)
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