『笑いという信仰』
アブラムが召されてカナンの地にやって来たのが、七十五歳の時。17章で、彼は九十九歳になっていた。神さまは正式なコーリングとして、アブラムとサライの名付け親となり、アブラハムとサラという名に改名された。
そしてアブラハムの子孫を大いに増やすと宣言された。
正妻、サラとの間に子どもはいない。24年も経ってしまったのだ。今さら子どもを授かるなんてありえない。
でもありえないことをされるのが神さまなのだ。サラを祝福して夫婦に男の子を与えるという。
「アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」(17節)
この「笑った」をどう解釈するか。老夫婦に子どもなんてムリ、という否定や疑いのニヒルな笑いだろうか。
確かに常識的に考えれば、神さまの言葉を疑っても無理はない。でも同時に、「ひょっとすると」、「もしかすると」、かすかな希望も芽生えたのではないだろうか。ふっと顔をほころばせるような、神さまを信じたいという笑み。
その、1mmくらいの信仰をも見逃さないで、大切に育ててくださるのが神さまだ。
アブラハムは続く18節で、常識的な返答をする。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」と。やんわりではあるけれど、神さまへの反論だ。
でも神さまは叱るでもなく、新しく誕生する子の名をイサクと命名し、婚外子イシュマエルの前途をも祝福することを約束してくださった。イサクとは「彼は笑う」という意味だそうだ。
かすかな希望の笑いを、真実の喜びの笑いにしてあげようと、神さまはアブラハムの信仰を励ましてくださった。それは私たちの信仰への、大いなる励ましでもある。
アブラハムの笑いはサラにも伝染したようで、次章では、サラと神さまが、笑った笑っていないと、ハートウォーミングな対話をくり広げる。乞うご期待!
神さま、私たちの問いかけをいつも聞いてくださってありがとうございます。交わりを持ってくださってありがとうございます。
笑顔で黙想できたことを感謝して、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
Comments